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 編集後記 2003年 Vol.1(1月23日発売) 

 昨年の1月1日に引き続き、今年の元旦もまた、都内の空手道場にて一人稽古をさせていただいた。終了後、ストレッチをながら、道場主の先生と会話をしていたところ、先生から「野沢さん、腕が太くなりましたね、前腕が」と指摘された。
 前腕の鍛練について初めて指導を受けたのが、黒崎健時先生で、それは鉄棒を振るという方法だった。その後、取材を通じて、盧山初雄先生、倉本成春先生から、手首と前腕を鍛える重要性についてたびたび説明を受け、具体的な鍛練法をご教授いただいてきた。
 スクワットのような大筋群のトレーニングなら、汗が一気に吹き出してくるので、「やった」という実感があるのだが、前腕は、腕が動かなくなるまで続けたとしても、あまり実感がなく、効果も見えにくい。悪いときには、2週間3週間と間が空いてしまうこともありがちだった。
 それでも続けてきたかいがあったか、「太くなった」と指摘されるのだから、これほど嬉しいことはない。「最強!ブルース・リー」の編集中に、中村頼永氏から、『ドラゴンへの道』における、ボスの事務所でブルース・リーが拳を握るショットを、「この写真がすごいのは、ブルース・リーの腕の太さがわかるからなんですよ」と言われ、腕の太さも大切だと再認識した時期だっただけに、喜びはひとしおだった。 昨年末、久しぶりでミットを持ってくれた旧知の格闘技団体代表者からは、「ミドルが強くなってますね。これならヘビー級の選手も倒せますよ」と驚かれた。ま、「ヘビー級の選手も倒せますよ」はお世辞だろうが、わずかながらでも、強くなったと言ってもらえる喜びも格別のものがある。
 ここ2年くらい、私は試合というものから遠ざかっており、今後、リングなどに上がることはもうないと思う。これを「引退」と呼ぶのかもしれない。しかし、練習や稽古の面においては、明らかに「現役」だ。武道の世界でよく言われるが、死ぬまで修行者であり現役であることは、この世界では常識である。
 競技の世界では、試合から遠ざかったり、年齢を重ねたりすると、力が落ちていく、というのが一般的だ。しかし、適切な量と良好な質の練習を続けていけば、実力は向上する。生涯が修行である「武道の世界」は特別なのだ、といった自画自賛的な考え方からこう言うのではなく、実力向上とは、科学的な法則なのだ。
 ただ、世間では、特に学校教育の場などでは、限られた期間しか与えられず、その中で課題をこなし、知識を詰め込まなければ、落第だ、と非難される。だから、科学的な法則が具現化される前に、多くの人があきらめてしまう。もし、3年の間に、これだけ強くなれ、などと期間や目標を設定されていたら、私は明らかに落第だ。
 1年かかっての成果が、腕がほんの少し太くなった、ミドルがほんの少し強くなった…、たったこれだけ。世の中には、もっと楽しいことは無数にあるのだろうが、見た目は実にちっぽけな変化に、はかりしれない喜びをおぼえてしまう私は、他人からは変人と思われるようだが、自分のことを最高の幸せ者だと思っている。

 

 
 編集後記 Vol.2(2月22日発売)

 私の愛用するコンピュータは、パワーブック160である。
 そう言うと、アップルだとかMACだとかをよく知っている人なら、ギョッとしたり、何かのまちがいだろうと思ったりするはずだ。実際、私の発言に対し、ほとんどの知人が目を丸くしていた。
 しかし、本当にパワーブック160なのだ。
 この機械は、10年前に発売されたノート型。購入当初は、いろいろな用途に使っていたが、さすがに漢字変換の遅さなどから、今ではワープロの使用すらままならず、データベースのみの使用となっている。
 昨秋、起動がおかしい、画面が暗くなる、バッテリー切れの表示が出るなどのトラブルが続出し、その道に詳しい知人たちに相談したところ、まずは皆、「エッ」という顔をしてから、口裏を合わせたように、「寿命です」と答えられた。
 寿命とあっちゃあ、仕方がねえ。ちょうど、モバイル用のサブノートが必要になっていたこともあり、ウィンドウズマシンも含め、徹底的に検討を試みた。
 検討を続けているうちに、パワーブック160の動作は、日に日に悪くなった。なかなか起動しない、あるいは、起動はしても画面が暗いままで、何の操作もできない、という状況にまで陥った。これでは、新しい機械を買っても、データの転送すらできない。私の全人生をかけて作り上げた6000本に及ぶ映画データベースは、このまま無と化してしまうのか?
 蒼ざめる思いの日々が続いたものの、データ転送の方法を専門筋から教わって少し安心し、新しい機械の購入は、これは、というものが見つからないまま、当面見送りということにした。
 データは転送できるから、といっても、また画面が暗かったりしたら、起動しても意味がないな、新規データの入力をしたいのだが、と思いつつ、恐る恐るパワーブック160を起動すると、すんなり起動し、画面が暗くならない。動作は安定していた。
 それから、半年近くが経過したが、動作の安定度は増し、作動時間が長くなると必ず現れていた「あなたのバッテリーは…」云々のメッセージも出なくなり、大河内傳次郎の秘蔵写真を使ったスクリーンセーバーも快適に動くようになった。
 寿命だと言われていた機械が復活してしまったのだ。
 復活の原因はいまだ不明。ただ、新しい機械の購入を検討していた時期が最悪の状態で、購入を見送ったら、調子が良くなったことが怖い。映画『2001年宇宙の旅』のHAL9000でないが、いくら何でも電子計算機が意志を持つなんて…、ちょっとね。
 一生もの、なんて言葉がまったく成立しない、次々に新機種が作られていくコンピュータの世界。それに対抗して、同じ機械をずっと使い続けてやる、などといった天の邪鬼な発想は非現実的なものでしかないが、動作が安定している限りは、今の機械を使い続けたっていいだろう。


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 編集後記 Vol.3(3月22日発売) 
 パワーのある人は、本当に存在する。
 この「パワー」とは、物を持ち上げる力や技の威力などではない。周囲の人間に強烈な影響を与え、突き動かしてしまう力のことであり、影響力とでも言おうか。それも適切な表現ではないので、仮に「パワー」としておく。
 パワーのある人…、決定的なところではブルース・リーだ。ブルース・リーを見たことによって、人生が変わった人間が、世界中にどれほどいることか。最近でも、『トランスポーター』の監督ルイ・レテリエが、「ブルース・リーの影響を受けなかったアクション映画なんて、存在しない」と嬉しい断言をしてくれているように、そのパワーは今なお継続中である。
 アンディ・フグが亡くなったとき、その報道や回顧特集などで、私たちは、走り回された。亡くなった人間が、これほど多くの人たちを動かすことに、アンディという人のパワーを感じずにいられなかった。「死せるアンディ、生ける編集者を走らす」と追悼号の編集後記に書いたくらいだ。
 そして、緑健児氏である。この人は、怖い人だ。この「怖い」という表現は、「おっかない」といった意味でも、「不気味」といった意味でもない。
 その全身から発せられる無言の厳格さが、叱咤としてこちらに伝わってしまうという点から、私は怖いと感じてしまうのだ。
 第5回世界大会で表彰台に立った緑氏の姿を見て、「あの人は世界でいちばん努力して優勝したのに、お前はいったいどれほど努力しているのだ?」と思えてしまい、緑氏が何か言ったわけではないのだが、怒られているような思いを勝手に抱いてしまっていた。
 今回の取材に当たって、緑氏は実に気さくに、全面的な協力をしてくれた。そんな人に「怖い」という表現を使ってしまっては、はなはだ失礼なのだろうが、それでも「怖い」くらいのパワーはまったく衰えていなかった。
 取材当日は氷雨が降り、取材の翌日も非常に寒い日となった。私は、こんな日に、朝からウェイトなんてやりたくない、休んでしまおうか、と布団の中でグズグズしていたのだが、ふと「緑さんなら、どうする?」との考えがよぎる。その瞬間、飛び起きてしまった。
 普段なら、なかなか布団から出ることのできない冬の朝に、人一人、飛び起きさせてしまうのだから、これはたいへんな影響力だ。しかも、その日は、いくつかの種目で新記録まで出てしまった。
 話は前後するが、緑氏は取材を終えると、道着の上着を脱いで、腕立て伏せを始めた。その隆起した肩と胸に圧倒された私は、思わず「今もウェイトは続けているんですか?」と愚問を発してしまった。一瞬、しまったと思っている私に対し、緑氏は、穏やかな口調で「ほんの少し」と答えてくれた。
 「ほんの少し」…。この人の「ほんの少し」がいったいどれほどになるのか。想像するだけでも気が遠くなってくる。
 緑氏のおかげで、ウェイトの記録が伸びた私だが、それはあくまで、ほんの少しだ。
それも、一般的な意味でのほんの少しである。

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 編集後記 Vol.4(4月23日発売) 
 八極拳の歩法訓練で、呼吸をしっかり意識して動作を行うようにした。具体的に述べてもわかりにくいとは思うが、一つ例をあげると、前手前足を引き、蓄勢となりながら息を吸い、そこから真下へ落として息を吐き、前へ足を大きく踏み込みながら息を吸い、踏み込みの足が着地する瞬間に、息を吐いて突く、といった具合だ。
 息を肺活量いっぱいの許容限度まで吸い込むので、自然と動作は大きく、遅くなる。その間は、姿勢を保たねばならず、倉本成春師範のいわれる停止筋肉的な身体操作が要求される。また、震脚や打ち込みが、予想以上に強化されるので、腕の勢いを止めるための肩、床へ着地する衝撃に抵抗するための下半身の筋肉が動員される。
 実は、呼吸を意識して行うことにより、筋肉自体への負荷は、はるかに大きくなる。
それゆえ、訓練を続けていくうちに、よけいな力が入る余地がなくなり、筋肉への意識が薄らいでいく。力を入れていては続けることができず、自然と脱力した状態になっていくのだ。
 頚、腕、肩、胸、背、腹、腰、大腿、下腿といった肉体の各部位を動かそうという感じではなくなり、まず呼吸が先にあり、呼吸をしていれば、肉体がそれに応じて動いてくれる、という感じになる。
 いにしえの達人が、呼吸を行っていれば、強さも身につく、といった意味のことを語っていたのは、こういう現象を踏まえたものだったのかもしれない。事実、脱力した状態で呼吸を続けていく限り、動作は続けられ、その上、息が乱れることがない。
 この歩行訓練は、通常の回数を終えると、汗が滝のように流れ、息も絶え絶えになる。しかし、今回は動いていて気持ちが良いくらいで、すべての動作を終了した直後、もう一度最初から繰り返せるな、と本気で思え、生徒に「もう一回やろうか?」と口走ってしまい、ギョッとされたほどである。
 練習を続けて長い年月がすぎると、日に日に上達する、などという成果は見られなくなる。しかし、年に数回、突然、目の前が開けるような感覚をおぼえることがある。
今回は、呼吸だった。何かをつかめた、と思えるのは、そんなときだ。これこそ、醍醐味というものだろう。
 私は、「練習をするのは、練習後にうまいビールを呑むためだ」と公言してはばからない。映画『AIKI アイキ』で、主人公が先生に、「どうしたら先生みたいに強くなれるんですか?」と尋ね、先生がにっこりとうなずいて「それはね、私のようにたくさんビールを飲むことです」と答えるシーンには(実はその後に先生の名言が続くのであるが)、他人事(ひとごと)ならぬ共感を、強烈に抱いてしまったくらいだ。
 練習してビール。その快感すら及ばない醍醐味があるからこそ、一生の業となり得るのだろう。こんなことを書くと、私を知る人から「何を偉そうに。呑むためだけに
やってる奴が…」と思われるに違いないが、これほどの経験を味わってしまうと、言葉にせずにはいられなくなるのが人情というものでしょう。

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 編集後記 Vol.5(5月23日発売) 
 私と互いに「腐れ縁」と認め合う巨椋修(おぐら・おさむ)氏が、このたび「不登校の真実」というセミドキュメンタリーを完成させた。
 漫画やイラストに始まり、小説や研究本の執筆へ。さらには、陽明門護身拳法という格闘技団体を作り、そしてとうとう映像の世界へと踏み込んでしまった巨椋氏のエネルギーと情熱は、恐れ入ったものがある。
 観客の一員になるくらいしか、私に協力できる場面はなさそうなので、上映会場には、ぜひ駆けつけたいと考えている。
 巨椋氏には、何の責任もないことなのだが、私がどうしても許せないことは、この作品が「映画」として、新聞などで紹介されていることなのだ。
 巨椋氏も認めているように、フィルムを使った撮影は、莫大な予算がかかるため、ビデオによる撮影を行い、コンピュータを使って編集をし、予算を抑えたという。
 それはそれで、まったく正しい。だが、そうした完成された映像は、映画では決してない。ビデオ作品である。
 映画とビデオは、まったく違う。新宿ピカデリーで上映された『ハリー・ポッターと秘密の部屋』と、ビデオやDVDとやらで発売された『ハリー・ポッターと秘密の部屋』とでは、同じ魔法使いの少年が大活躍しようと、まったく違ったものを見たことになってしまう。
 映画とビデオの違いを説明し始めたら、きりがないが、端的に述べるなら、光源体の光を受けて輝く月と、みずからが光源体となって輝きを放つ太陽の違い、となろうか。そう、映画とビデオは、月と太陽ほどの違いがあるのだ。
 にもかかわらず、世間は、フィルムでなく、ビデオで撮影された映像を、無責任に「映画」と呼び放つ。そうした風潮に追い撃ちをかけるように、映画がデジタル撮影され、映写や世界への配信がデジタルで行われることが、映画の革命といった感じで歓迎されるような説が飛び交っている。
 しかし、フィルムで撮影されず、フィルムからスクリーンへ投影されることがなくなったら、それはもはや映画ではなくなる。
 画質の向上や予算の削減など、デジタル化の利点は多かろう。しかし、『スター・ウォーズ エピソード3』が、高密度なデジタル映像で完成され、通信で映像が配信され、液晶プロジェクター設置のシネマコンプレックスで上映されるとしたら、そんなものを見に行こうとは思わないだろう。
 『スター・ウォーズ エピソード3』を極上の画質で見るよりも、退色した赤くなってしまったプリントで、成瀬巳喜男の『ひき逃げ』を見る方を私は選ぶ。
 『スター・ウォーズ エピソード3』どころか、いずれはすべての映画がデジタルになる、そしたら、お前の言う「映画」なんか、見れなくなるんだぞ、と言われることだろう。
 それでいい、と私は答える。フィルムさえなくなるようなら、自宅に映写設備を置き、『忠次旅日記』のフィルムを手に入れて、毎日でも見てやろう。新作を液晶画面なんかで見るより、その方がずっと楽しいではないか。
 『丹下左膳 第1篇』がイギリスで見つかったというのなら、『新版大岡政談』を、世界の果てまで探していこうじゃないか。
 なるほど、希望のない未来に目を向けるより、失われたとされる過去を振り返ればいい。視界がとたんに開けた気分だ。

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 編集後記 Vol.6(6月23日発売) 
 今、編集部内では、なぜか第5回大会が流行っている。正確に記すと、極真会館主催の第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会のことである。
 どういう経緯でこういうことになってしまったのか、あまり記憶が定かではないのだが、BUDO−RA第4号で盧山初雄館長の特集を組むに当たり、昔のビデオを見直したりしていたからだろうか?
 この大会は、本当に何度でも見入ってしまう。盧山館長や山崎照朝先生の姿はもちろん、中村忠・現誠道塾会長、大山茂・現ワールド大山空手総主、二宮城光・現円心会館館長、富樫宜資・現無門会会長…。本誌でもおなじみの先生方が、生き生きと動いているところが最大の魅力だろうか。
 もちろん、空手技術の面でも、今月号で、真樹日佐夫先生と盧山館長という時の証人が語ってくれているように、この大会は、勉強になるところが非常に大きい。
 これは、うちの編集部ならではのことだろうが、山田編集長と、決勝戦を再現してみよう、ということになった。
 山田編集長が山崎照朝先生、私が盧山館長となる。左の掌底で入り、右の逆突き、という試合通りの順序で攻撃すると、これがおもしろいように決まる。
 山崎先生は、右の下段を蹴って、あるいはスイッチして左上段廻し蹴りを蹴ってくるのだが、そこに合わせて前進しながら掌底を打ち上げると、カウンターとなり、山崎先生側の動きが封じられてしまう。
 そして、三日月蹴り。これは、いきなり出しても入る。山崎先生の構えは、左手を大きく上に上げているから中段が空いている、といってしまえば、それだけなのかもしれないが、山田編集長によると、後屈立ちの構えから蹴ってこられると、距離感が狂ってしまう、ということだった。
 その他にも、いろいろ発見なり研究なりができ、成果は大きかった。物真似ということではなく、真剣に動きを模して組手をしてみると、見ているだけではわからなかったことが体で理解できるようになってくる。いずれは他の人の動きでも試してみたいものだ。
 真樹先生との対談で、盧山館長にお会いして数日後、山崎照朝先生にもお会いする
ことができた。第5回大会ビデオをきっかけに、円環の動きが一九七〇年代にも拡がっているのだろうか。
 思えば、世間全体も七〇年代に回帰といった風潮がある。その時代に育った世代が、各媒体での発言力を持つ時代となった、ということもあろうか。
 しかし、単なる回顧にしてしまってはいけない。常に現代と連動させながら、円周を七〇年代にも拡げていけばいい。
 今月登場していただいた真樹先生にしても、盧山館長にしても、永遠の青春を主張し、実際にその通りの行動を見せてくれている。
 過去や回顧といったとらえ方でなく、あらゆる時代を常に更新される現在としてとらえていけば、古くなる、といった概念は消える。
 第5回大会は古い大会ではない。盧山館長の戦法は古い戦いではない。真樹先生の作品が古い文章ではない。ブルース・リーは古い人ではない。『忠次旅日記』が古い映画では決してない、と断言したい。

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 編集後記 Vol.7(7月23日発売)  

 空手道場は「いい場所だなあ」と思える立地のところが多い。例えば、駅に近い、繁華街の中心、住宅街の中心、人通りが多い、学校に近い、などなど。
 入門者の多少は、立地条件に大きく左右されるので、道場を出すにあたって、そのへんを十分に考慮しているのであろう。取材でいろいろな道場にうかがうが、いつも感心させられている。
 今月号では、塚本徳臣選手を新極真会の目黒道場で取材したが、やはりとてもいい場所にあった。駅からすぐ近く、というわけではないのだが、目黒という町自体がいい。
 最近は足が遠のいているが、目黒シネマという、良心的な番組構成の名画座があり、その待ち時間に、周辺をよくうろついたものだが、この界隈は歩いているだけで気分がよい。その上、最高に好きなとんかつ屋である「とんき」がそびえている点が決定的か。
 小宮山大介選手の取材を行った渋谷道場は、桜ヶ丘町。周囲は、そそられる飲み屋が林立する絶好の地。ここで稽古が終わった後は、さぞかし気分よく飲めることだろう、と一瞬、入門を考えたくらいだ。
 桜ヶ丘町付近に、山田編集長強力推薦の「たぬき」という店があるらしく、取材を終えてから、しばらく探し歩いたのだが、どうしても見つからない。ここだろう、という場所に行き着いたところ、建物がなく、更地になっていた。
 銀座交絢社ビルにあったビアホールの老舗「ピルゼン」は、老朽化したビルの取り壊しによって消えてしまった。たぬきも同じ運命を辿ったのだろうか? 知っている人は教えてください。
 渋谷に劣らぬおしゃれな町でいえば、阿部清文氏の極真会館福岡支部。天神というところにあるのだが、いざ行ってみてびっくり。東京でいえば、代官山や自由ケ丘みたいな町で、私のような人間が歩くにはどうしても溶け込めない雰囲気だった。
 おしゃれ度でいえば、真樹道場が高得点。まさか、こんなところに、という感のある西麻布だ。高級店から、手頃な値段のお店まで幅広く密集している上、近くに六本木ヒルズが完成して、ますます隆盛を極めている。
 脩己會倉本塾が立地するのは、巣鴨。歴史的な理由が何かあるのだろうか? 巣鴨はやけに寿司屋が多い。ちょっと歩けば、寿司屋にぶつかるという頻度だ。風情のある造りの店も少なくない。
 巣鴨に出ると、それらの寿司屋に釣られて、無性に飲みたくなってしまう。しかし、巣鴨といえば、この店。大沢昇先生の大沢食堂だ。並み居る寿司屋を横目で見ながら、目指すはやはり大沢食堂となってしまう。
 大沢食堂は、昨年まで夜10時からの営業だったが、今年から夕方6時の開店となった。これで一般の人も利用しやすくなったはず。お店がいつも混んでいるのは、その影響もあるのかもしれない。


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 編集後記 Vol.8(8月23日発売)

 夏休みはどうでしたか?
 世間じゃ、今ごろ、こんな挨拶が一般的に交わされていることだろう。
 BUDO−RA編集部のあるフル・コムは、当然ながら、夏休みなんて、なし。
 むしろ、比較的空いている電車や、人通りの少ない街並を楽しみながら仕事をしている。
 また、公共の体育館などは開いているところもあるため、そこへ飛び入りで予約を入れ、練習をするという手もある。
 こういう時期は、他にほとんど利用者がいないため、広い体育館が貸し切り状態。
思う存分、使うことができるのだ。
 年末年始も東京の人口が減って楽になるのだが、公共施設はもちろん、飲食店なども休みになってしまうところがつらい。
 それに比べて、8月は、人が減る割には、都市が機能しているため、東京をゆっくり楽しむことができる貴重な時期といえる。
 小学校1年のとき、近所の人から、明日から夏休みだね、と言われて、何のことか? と思ったものだ。
 帰って祖母に、夏休みとは何ぞや、と尋ねたら、学校には夏休みというものがあり、1ヶ月以上もお休みになるのだ、と教えられた。
 そんなに休んでよいものなのか? 休みになって嬉しい反面、疑問をおぼえたりもしたものだ。
 夏休みなんて、とることはない。暑い8月こそ、書入れ時なのだ。
 ところが、BUDO−RAを刷っている印刷所は、夏休みになるという。
 1週間も休まれるため、締め切りを1週間早められてしまった。
 通常の月なら、取材をまとめてこなし、続いて原稿の執筆にとりかかる、という段取りになる。
 それが今回は、昼間に取材して夜に原稿、1日取材して次の日に原稿、といった緊密日程を強いられた。
 取材ではペンでメモ取り、原稿はタイプ打ち、で腱鞘炎にでもなったのか、指先の感覚がなくなってきたほどである。
 月刊誌なのだから、月々の工程は決まっている。そこに休みを無理矢理入れるものだから、日程が狂ってくる。しわ寄せを食う編集側は、たまったものではない。
 せめて、この部署は3日から10日が夏休み、この部署は10日から17日が夏休み、といった具合にできないものなのだろうか。
 ま、印刷所に文句を言っても、仕方がない。
 ただ、話を戻すと、いわゆる夏休みという限られた期間に、観光やら避暑やら、多くの人間が押し寄せる方向へ向かう、というのは、決して楽しいことではないと思うのだが。
 人が休んでいるときは、逆に働く。それこそが快感ではないか。
 ……って、そんなことをほざく奴を、世間は天の邪鬼と呼ぶらしいが。


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 編集後記 Vol.9(9月22日発売)

 中村頼永氏、関誠氏のご尽力により、香港映画『中泰拳壇生死戦』を見せていただいた。
 タイトルをじっくり読めば、おおよその内容は予想できるだろう。そう、中国武術の人間が、タイへ行って、ムエタイと試合をするのである。
 主演はアンジェラ・マオ。脇役陣には、サモ・ハン・キンポーなど、見慣れた顔も並んでいる。
 借金返済に困り、お金のためにタイへ試合に行った仲間が死んでしまい、中国武術の威信を回復するため、アンジェラ・マオたちがタイへ乗り込む。
 もちろん、そうやすやすと勝てるわけではない。ムエタイがいかに強いかが、しっかりと強調されている。特に首相撲からの膝蹴りを、最も恐るべき攻撃と見なしているところは、やけに現実的だ。
 クライマックスは、タイの遺跡でマフィアと対決。遺跡というところが、『ドラゴンへの道』を意識した作りになっている。
 途中には、中国の武術連盟が横槍入れたり後押ししたり、と日本の空手界みたいな力関係が描かれたり、タイでは空港でつかまえたタクシーに法外な料金をふっかけられたり、と小技もたくさん利いていて、お腹がいっぱいにさせられる。
 とにかく、ムエタイの脅威を素直に認め、勝つための工夫をして練習に励む、という制作方針には、非常に好感が持てよう。
 「打倒ムエタイ」といえば、黒崎健時先生と藤原敏男先生、ということになる。あのお二人のような師弟が、中国にもいたわけだ。
 これは映画の中だけの話ではない。実際、中国にとどまらず、それこそオランダを始めとするヨーロッパ各国にだって、打倒ムエタイを目指す人間は多く実在しているのだ。
 本誌だってムエタイチャレンジを主催しているのだから他人事ではない。この試合
に関しては、山田編集長のリポートをじっくり読んでください。
 映画を見ながら、改めてムエタイの偉大さ、あまりにも高き頂というものを知らされた思いがする。
 ムエタイの偉大さとは、選手の強さ、技術の高さなどには留まらない。観戦をするにしても、さまざまな楽しみ方ができる、という点が、日本のキックボクシングとは決定的に違っている。
 リングサイドは、外国人中心で、ま、ここは日本のキックボクシング会場みたいなものだ。スタンドになると、賭けに高じる輩で殺気すら漂う賑わい。
 だが、スタンドでも、別の一角では、ビールを飲みながら、のんびりと、それこそ行楽気分でくつろいでいる観客もいる。こうした多様な楽しみが可能なムエタイ。格闘技興行としても、それは世界で最高のレベルにあるのだ。
 話がどんどんムエタイに行ってしまったが、それはともかく『中泰拳壇生死戦』。
絶対満足できるオススメの一作である。探し出すのは難しいでしょうが、興味のある方は、何とかがんばって見つけてください。その価値は、絶対にある、と断言できよう。


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 編集後記 Vol.10(10月23日発売)

 祖母の三回忌にあたり、一年ぶりに帰郷した。
 祖父が亡くなり、祖母が体を壊してからは、我々兄弟が家を離れていたこともあり、ずいぶんとさびしい日々が続いていた。
 ところが、今回、帰郷して、あまりのにぎやかさと活気に驚いた。
 出来の悪い長男(私のこと)に代わって、家を継いでくれた妹の子たちが成長し、家の中をかき回していたのだ。
 私は「子供が嫌いだ」と公言している。恐らく、本当に嫌いではないのだろうが、自分でも理解しがたいこだわりがあるようだ。
 特に、子供言葉で相手をするのは、犬や猫に日本語で話しかけるに等しく恥ずべき行為だと思っている。
 しかし、二人の子供たちに二方向から同時に攻撃されたりしてしまっては、子供言葉で話すことはないにしても、彼らの考えや立場に合わせて行動をしなければならなくなる。
 自然と、思考回路が幼児のそれに近くなっていくことが、自分でもはっきりと自覚された。
 これは、彼らの祖父母に当たる、私の両親にしても同じなのだろう。二人とも、数年前よりも確実に元気になっており、どことなく若返っているようにも見えた。
 こうして生命は持続されていくわけか。
 高校生の頃、『私は二歳』という映画を見て大感激した私は、やはり同じ時期に見た『2001年宇宙の旅』という映画と比較する形で批評を書いた。
 比較というよりも、説話的には共通している、ということが主題だった。一つの生命が終わりを遂げ、新しい生命が誕生していく。どちらの映画もそれを描いていたのだ。
 さらに考えていけば、生命の誕生、成長、衰退、そして死という円環が、映画の説話に通底していることがわかる。
 D・W・グリフィスの『エルダーブッシュ峡谷の戦い』にしても、伊藤大輔の『忠次旅日記』にしても、山中貞雄の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』にしても、ジョン・フォードの『驛馬車』にしても、小津安二郎の『麥秋』にしても、成瀬巳喜男の『おかあさん』にしても、フランソワ・トリュフォーの『恋のエチュード』にしても、ホウ・シャオシェンの『むこうの川岸には草が青々』にしても、クリント・イーストウッドの『センチメンタル・アドベンチャー』にしても、ヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』にしても、エルマンノ・オルミの『木靴の木』にしても、さらには、今年のベストワンになり可能性が最も高い、ソン・へソンの『パイラン』にしても、生命の円環をどこで切り取るか、ということが説話上の決定的な相違点として成立しているだけのことだった。
 映画で表現される説話を、実生活で体験する。そんなことは現実的にあり得ない。
長らくそう思えっていたのだが、本当に起こってしまった。私は今、ものすごく感動している。


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 編集後記 Vol.11(11月22日発売)

 十月に、「ジョー&飛雄馬」の刊行が終了した。
 私は、漫画雑誌を定期購読した経験がない。いちばん読みたかった「あしたのジョー」や「空手バカ一代」が連載中は小学生で、お金がなくて買うことができなかったのだ。
 お金のかかるものには手を出せない。出せないのなら、興味を持たないようにしよ
う。無理に自分を遠ざけていき、漫画というものに接することなく、人生を過ごしてきた。
 しかし、「ジョー&飛雄馬」は別だった。これが「ジョー&マス」だったら最高だったのに…、という個人的な希望はともかく、「あしたのジョー」「巨人の星」という梶原一騎原作の二大傑作が連ねられた隔週誌に強く惹かれた。
 生まれて初めて漫画雑誌を定期購読することになったのである。
 月に二回、隔週の刊行ゆえに、次の号が出るまで、二週間待たなければならない。
単行本は、さまざまな版が世に出ているのだから、次の回がどうしても読みたければ、単行本で読むことも可能だった。
 しかし、次の回まで二週間待つ。何度か繰り返し読み、細部を確認する作業なども行っていると、いつしか次の号が発売になる。この間隔が心地良かった。
 「あしたのジョー」と「巨人の星」については、幾百の評論が出ているので、私がここで口を出しても何を今さら、ということになってしまうが、敢えて言えば、両作品とも、以前にも何度か読んだときと同じく、今回も結末には感情移入できなかった。
 さまざまな解釈が可能になる「開かれたラスト」という点を考えれば、非常に高度な技法となる。映画でも、これを成功させている例は稀である。
 しかし、生き方という観点から、実人生を透して考えると、身を削り、燃焼、悪くいえば消滅していくことには賛同しかねる。
 小学生の頃は、燃えつきることに魅力を感じたりもしたものだ。怪我が勲章に思えたり、太く短い人生を目指したりもした。
 しかし、実際に空手やボクシングの世界に入ってみると、強くなるために、怪我がどれほど大きな障害となるかを思い知らされた。試合で勝つためには、一度や二度の敗戦であきらめてなどいられない。長い時間をかけた挑戦の繰り返しが必要になる。
 長い時間をかけ、技を練れば練るほど、次なる課題が浮かび上がってくる。これでいい、という到達点など、ないことがわかる。
 太く短い人生などといってはいられない。映画『最前線物語』での「戦場で最も大切なことは、生き残ることだ」の台詞に受けた影響もあり、生き恥さらしてでも生き抜くことが人生の目標となった。
 目標となる先生方にもたくさんお会いすることもできた。
 梶原一騎先生の実弟である真樹日佐夫先生は、梶原作品とは対照的に、還暦をすぎながらも日々の稽古を欠かしていない。
 大沢昇先生には、お会いするたびに、肌の色つやに感服させられ、人間の肉体は五十歳まで成長する、という理論を実感し、鍛練はまだまだ終わらないぞ、と奮起させられる。
 中でも強烈なのは、黒崎健時先生で、「人類が滅びるまで生きて、滅びるところを見届けてやる」とおっしゃっていた。
 素晴らしい先生方が啓発してくださる中、矢吹丈も脳裡に現れた。ウェイトトレーニングで、通常のメニューをこなし、終わりにするか、と思った週間、矢吹丈が登場した。
 「完全燃焼は自分の目標じゃないなんて言ってるようだが、燃焼だってしてないんじゃねえのか?」
 燃焼すらしていない。ハッとして、器具に手を伸ばし、もう1セット、通常より軽い重量で回数を多くこなした。ドッと汗が噴き出した。通常メニューでは、やはり燃焼していなかったのだ。
 今なお、自分を突き動かす影響力を発揮している「あしたのジョー」に、改めて感謝の念を抱いた。
 ありがとうございます。終了の挨拶は、矢吹丈先生に向けて、させていただきました。


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 編集後記 Vol.12(12月22日発売)

 「緑健児が教える ビギナー君の黒帯チャレンジ」の取材は、熱血肌の緑健児代表だけに、指導に熱が入ってくる。横で取材をしながらも、中島君を応援したくなってきて、こっちまで力が入ってしまう。
 そんな私が、物欲しそうな顔でもしているように見えたのだろうか、緑代表は、それを見逃さなかった。最後の補強になって、「じゃ、野沢さんも一緒に!」と呼ばれてしまう。「いやいや、私はただの取材ですから」などと言えるはずもない。腹筋50回、背筋50回、拳立て50回、ジャンピングスクワット50回を一気にこなしてしまった。
 緑代表は、人をのせる天才ではないか、と思わされた。考えてみれば、大山倍達総裁こそ、その元祖である。大山道場時代から極真会館創生期に、総裁の「おだて」というか、一言によって、先達の方々の多くが、空手の道に身を投じていった。
 時を前後し、私の練習仲間が、顔面パンチなしルール(以下、顔面なしと略す)の試合に出場することとなった。対戦相手がいないから、という理由なのだが、ふだんはムエタイの練習をしているのだから、いきなり顔面なしなんて対応できるわけがない。
 しかし、当分、顔面ありの試合もないことだし、練習の一環として、出場させることにした。当然、顔面なしの練習をしなければならない。こう動けばいいよ、と言っているだけでは説得力がないので、自分も顔面なしのスパーリングに参加して、攻防の有効性を体で確認する。
 ここ数年、顔面なしは、まったく行っていなかっただけに、パンチを受けて、このくらいならどうってことないな、と思っているところへローをもらい、後でアイシングと湿布をすることになってしまった。こんな事態は、2年前にアンドレ・マナート氏とスパーリングを行って以来である。
 これはすごく悔しい。ちがう競技なのだから、などとは言いたくない。私は攻撃をもらわないことが身上だったのだが、ローをもらうなんて、絶対に許せない。少なくても、仲間が試合に出るまでは、顔面なしルールでスパーリングを続け、この借りを倍にして返そうじゃないか。
 そう思っていた矢先に、緑代表から、「次からは、野沢さんも一緒にやりましょう」と言われてしまったのである。そうです、やります。
 顔面なしの試合から離れて、実に十年。顔面ありの試合から離れて五年。試合に出ていた時期は、常にそのルールに徹した練習を積んでいたが、最近では、ルールや競技に縛られることなく、いろいろな練習方法をも取り入れるようになっていた。
 ところが、空手の世界へと引き戻されている。いや、これも円が一周して、次なる円に向かうということなのだろう。私の何度目か(恐らく五度目)の武道人生が、新たに始まろうとしている気がする。
 年齢的にも、シニアやマスターズに胸を張って参加できる時期になった。もしかして、また試合に出るようなことになってしまうのだろうか。


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 編集後記 Vol.13(1月23日発売) 

 BUDO−RA無法地帯の対談で、先月、名画座のことが話題になった。懐かしくなったので、思い出の名画座を振り返ってみたい。
 初めて行ったところは浅草の東京クラブで、中学3年のときだった。2階席に上がると、ほとんどの客が足を前の席に投げ出していて、とても座ることができない。1階席に下り、何とか席を確保することはできたものの、近くの席で、ケンカが始まったのには驚いた。
 映画は『テンタクルズ』と『バルジ大作戦』。ケンカがあったおかげで、映画を見ている間は、映画の内容に関係なく、緊迫感が続いていた。先月の対談で、田宮氏に
対し、浅草の名画座は小学生が行ける雰囲気じゃない、といった発言をしたのは、こうした経験を踏まえてものだった。 次は、池袋の文芸座であったか。上映作品は、『ストライキ』と『戦艦ポチョムキン完全版』。我ながら、映画史の定番を律義に辿っていたと思う。
 模擬試験の帰りに寄った、というか、映画を見たいがゆえに模擬試験に行ったような気もしているが、そこでの飯田橋佳作座も忘れがたい。映画は『そして誰もいなくなった』と『第3の男』。
 佳作座は、1980年代終盤に閉館してしまった。飯田橋には、ギンレイホールという佳作座に双璧する名画座があり、現在も健在だ。しかし、ここは数年前から、会員制をとって以来、常に混んでいる状態になってしまったため、フル・コムから徒歩圏内にあるにもかかわらず、まったく足を運んでいない。
 名画座ではないが、フィルムセンターも取り上げぬわけにはいくまい。毎年、春には「映画史上の名作」という初心者向けの企画があり、これで映画史のおさらいをすることができた。
 しかも、私がフィルムセンターに通い初めて間もなく、D・W・グリフィス特集があり、翌年にはジョン・フォード特集があった。これらに日参できたことは、自分にとって大きな財産になった。
 ジョン・フォード特集が終わってから、フィルムセンターは、可燃性フィルムが発火して火災となり、数年間閉館されていた。今は新装されて、きれいな建物になっているが、旧センター時代の、止まるとがしゃんと揺れるエレベータに乗って上映ホールへ行き、動くとぎしぎし鳴る椅子に座って映画を見たことは、今となっては味わいの深い思い出だ。
 大塚にあった大塚名画座と鈴本シネマは、お気に入りだった。前者は外国映画、後者は日本映画を上映する。『燃えよドラゴン』『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』の三本立てという怒濤の番組など、今では実現不可能だ。オールナイトなら考えられるが、昼間の通常番組で、これをやっていたのだから、すごい。
 大井武蔵野館は、「いつまでもあると思うな映画館」という名言を遺し、本当になくなってしまった。この映画館がなくなったとき、この世から名画座は消滅する、と真剣に思ったものだ。
 しかし、現在、名画座はわずかながらも復活している。特に早稲田松竹の再開は非常に嬉しいもので、現在もたびたび利用させてもらっている。


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 編集後記 Vol.14(2月23日発売) 

 宮本武蔵を真似るわけではないが、「我、事において後悔せず」という人生を送っていた。しかし、つい先日、珍しく後悔の念を抱かされてしまった。
 犯人は、映画『バレットモンク』である。この映画の主人公カーは、カンフー映画を上映する場末の映画館で、住み込みの映写技師をしている。彼は、映画を上映しながら、スクリーンに映し出される動きを真似て練習を積んでいたのだ。
 この手があったのか! これまでの人生に対し、後悔が猛烈に沸き上がってきたのは、この瞬間だった。
 今でこそ、ビデオを見ながら、自宅で動きを真似ることは容易になった。しかし、私がブルース・リーを初めて見た時代、ビデオは家庭用にはなっておらず、その動きを真似るどころか、まず記憶に留めるには、何度も劇場へ通うしか術がなかった。もちろん、劇場へ何度も通う時間も費用もない。映画を見て、動きを模写してやろう、などという考えが浮かぶまでもなかったのだ。
 しかし、映写技師という手があった。学校をやめ、家を飛び出し、不法な就労とは思うが、映写技師になって、ひたすらブルース・リー映画の上映館を移りながら、その動きを徹底的に真似すればいい。せめてあの動きだけでもできれば、と痛切に感じた時代が思い起こされる。
 社会を逸脱する勇気があったならば、ブルース・リーのあんな動きを完璧に模倣できるような少年を目指せたかもしれない。あの動き自体が、もはや達人の域だけに、それが実現する可能性は非常に低いわけだが、それでも人生まちがったな、と後悔せずにはいられなかった。


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 編集後記 Vol.15(3月23日発売)

靭帯物語その一
 12月に大腿を故障して以来、雌伏すること約2ヶ月。前回の借りを返すべく、万全の体調で、空手のスパーリング3分間に臨む。
 最初は3人で回っていたが、そのうち徐々に参加者が増え、10ラウンドを超える頃には、10人近くになっていた。
 顔面ありルールの人間も入ってきたので、そろそろこちらのルールもこなしておこう、と恐怖の交互スパーとなる。顔面ありと顔面なしを、ラウンドごとに交替して行うのは、本当に難しい。距離感が狂うから、危険極まりないのだ。
 空手の感覚が少しつかめてきたな、と思っていたのだが、顔面ありを行ってから、また顔面なしに戻したところ、痛烈な右ローキックをもらう。
 後になって考えると、このあたりでダメになっていたのだろう。その後は、いくら蹴っても、手応えがなく、当たった瞬間に、脚が伸び切らない状態が続いた。
 15ラウンドくらい行ったところで、終了。その瞬間、床に足を着くことができなくなった。せっかく治ったのに、またぶり返しだ。
 自転車で来ていた人に乗せてもらって、氷を買いにいき、すぐに冷やす。これで何とかなるだろう、とビールを飲み始めたところ、痛みが増してきた。
 冷やしても痛みはひどくなる一方であり、足を地面に着くことができないのだから、歩くことなど、とうていできない。どうやって帰れというのか。結局、救急車を呼んで病院へ運んでもらうことになった。


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 編集後記 Vol.16(4月23日発売)

靭帯物語その二
 病院でレントゲンを撮ったところ、骨折はしていない、とのことで、ひと安心。ビール麻酔がようやく効いてきたのか、痛みも治まってきた。
 病院からは入院を勧められたが、これなら帰れる、とタクシーを使って帰宅した。
 夜中になって、痛みで目がさめる。昼間以上の激痛が襲ってきた。どんな姿勢で寝ても痛む。寝ていられないから、座ってみる。それでも痛む。そのうち、立ち上がって痛みをこらえようとする異常事態となった。もちろん、そんなことをしても、痛みは一向に治まらない。
 これぞ、まさに「居ても立ってもいられない」だな、などと感心してしまったほどだ。もうこれ以上耐えることができない、と自力で救急車を呼ぶ。救急車を待ちながら玄関に立っていたが、2月だというのに、真夏のような汗が流れ出してきた。
 救急車が到着し、大久保にある外科病院へ。痛み止めをもらうが、なかなか痛みは引かない。入院病棟へ運ばれ、ベッドに寝かされる。朝になっても痛みは引かなかった。
 午前中の回診があり、専門の先生に診てもらう。膝に血が溜まっているとのことで、注射器で吸い取る。250ミリリットル入りの注射器に3本、たっぷり血が抜き取られた。
 これで楽になった。痛みがすっと引いた。
 午後は、レントゲン撮影と、MRIという磁気を使った撮影。後者は、30分くらい時間がかかり、昨夜寝ていなかったこともあり、撮影中に寝てしまった。
 翌日、検査結果が出る。確かに骨には異状がないのだが、膝の十字靭帯(前にある縦の方)が断裂(!)しているとのこと。写真を見ると、確かに靭帯らしき物体がぷっつり切れている。
 断裂となると、移植手術をしなければいけないのだが、日常生活を営む程度なら、手術をしなくても筋肉でカバーできる、ということで、手術をするかどうかの選択を求められる。
 手術をしなければ、もう人を蹴ることができなくなり、この世界からの撤退を意味する。やめなければならないのか。しかし、以前、開腹手術を受けたことから、もう体にメスを入れるのは絶対に避けたい、という気持ちも強かった。
 手術はせず、ど突き合いの世界からは身を引く、ということにした。短時間で結論を出すに至ったが、これって、人生でかなり大きな選択なのではないか、と他人事のようにも思えていた。
 苦闘はここからが始まりだった


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 編集後記 Vol.17(5月22日発売) 

靭帯物語その三
 先月、先々月の編集後記で、靭帯の怪我について書いたところ、励ましやお見舞いのご連絡を各方面からいただきました。この場をかりて、お礼申し上げます。
 中には、私がまだ入院中だととらえた方もいらっしゃったようですが、入院は1週間で強引に切り上げました。書き方が不明解で誤解を招いてしまったことを、お詫びしていたします。
 一ヶ月半に及ぶ松葉杖生活を終え、現在は、日常の歩行などは普通にこなすことができるようになっています。練習の方にも復帰しました。まだ一部の手技しかできませんが、初心者になったつもりで、少しずつできる技を増やしていくつもりです。
 さて、靭帯物語に戻ります。
 怪我した左足を地面に着けることは厳禁。もちろん、歩くとなど禁止なので、最初は車椅子を使用させられた。
 入院中は、雑誌の校了間際という時期に重なったため、外出届けを出しながら、二日に一回は会社へ行き、最後の校正作業をしなければならなかった。
 入院生活というのも、悪くはない。知人から差し入れてもらった本を読みながら、一日中寝て過ごす。時間が来れば、食事も運ばれてくる。食事は、栄養のバランスがとれた内容で、全体の量や脂肪、塩分、糖分などは必要最低限に抑えられているため、この食生活を続けていれば、太る心配はないほどだ。
 同室のじいさんたちは、家族に差し入れしてもらったり、自分で買い込んだりしたお菓子などを夜中に食べているようだったが、これは、非常にもったいない行為である。
 入院生活は悪くないといっても、痛みが引いてくると、入院していること自体が許せなくなり、院長に直談判し、退院の許可をもらってしまった。
 退院するということは、何でも自分でこなさなければならないことでもあり、想像以上に苦しいものとなった。
 まず、松葉杖歩行がきつい。これまでは、何でもない距離に思っていたところが、すごく長く感じられる。腕で体重を支えるので、疲労も激しい。杖の当たるわきの下は、皮がむけてしまった。
 会社へ行くときはタクシー利用。タクシーのよく通る大きな通りに出るまでが、まず一苦労。通りでタクシーを待つ間は、立ったままだが、その姿勢を保っていることも意外にきつい。
 平地を移動するだけで、これだけ苦しいのだから、坂道や階段などは、何をか言わんや。名古屋へ長谷川一幸先生の取材に行ったときは、人出の多い中、電車の乗り換えで階段を昇り降りし、これは耐えられない、と逃げ出したいくらいの心境であった。


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 編集後記 Vol.18(6月23日発売)

靭帯物語その四
 松葉杖歩行は、単に歩行だけがきついのではない。距離の移動が絶対的に困難なため、遠出ができない。家の中でさえも、活動範囲がどんどん狭まっていく。その内、外出すること自体が疎ましくなり、宅配や便利屋みたいなものの依頼を真剣に考えたほどである。こりゃ正に「引きこもり」だ、とまで感じられた。
 世界が縮小していくような毎日を耐え、「一ヶ月半の完全免負荷歩行」という治療日程の内、一ヶ月を経過した時点で、「完全免負荷」を「50%負荷」に変更する許可が下りた。
 それまで、片足は地面から完全に離した状態だったのだが、体重の50%で着地してよい、という。リハビリ室で、体重計の上に左足を乗せ、50%負荷の感触を足に憶え込ませる訓練は、おかしな気分にさせられるものだった。
 50%負荷で、ぐっと楽になった。松葉杖を使いながら両足で歩いている人を見かけたことがあると思う。歩けるのに、なぜ杖をついているのだ? それまでは疑問に思っていたが、やっと理由がわかった。杖を使って、負荷を軽減していたわけだ。
 楽になったとはいえ、まだまだ障壁は大きかった。例えば、道を歩いていて、前方から対向者が来たとしたら、私は普通、すぐに軌道を変えるのだが、その方向転換ができない。膝のひねりが痛みに直結するのだ。
 坂道の上り下りは、負荷のかかる角度が微妙に変わって、やはり痛みが膝にくる。
地面が右か左に傾いている場合は、杖をつくバランスが崩れて歩きにくい。駅の自動改札では、通り抜ける前に、扉が閉まってしまうこともしばしばだった。
 自動改札といえば、電車は実に苦しい乗り物だった。駅にはまず、階段という障壁があり、エスカレータにしても、その乗り降りはタイミングが狂う。列車内にはシルバーシートなるものがあるが、乗車してから、そこまで辿り着けないのだ。
 体の不自由な人のため、などと謳われていても、その席に辿り着くことのできる体力のある人が使えるもの。辿り着けない人間は、ドアの付近で立っているしかない。電車とは、健常者以外使ってもらいたくない乗り物なのだ、と痛感させられた。
 そんな苦労をしつつ、リハビリは続く。内容は、膝関節周りのマッサージを受けることと、運動としては、レッグカールが中心となった。
 動かすと痛い。しかし、それは肉体組織の損傷ではなく、筋肉の使い方ができていないため、骨のずれが神経を圧迫して痛みとなる、というのがリハビリ師の見解で、これまでのとらえ方とは大きくちがうものであり、勉強になった。


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 編集後記 Vol.19(7月23日発売)

靭帯物語その五(最終回)
 三月三十日は、刺激的な一日を予感しつつ、朝を迎えた。二本立ての取材が入っていること以上に、松葉杖がとれる予定日であることが非常に大きい。
 2週間ほど前から、一本松葉杖になっていたため、歩行にはほとんど支障がなくなっており、自宅から病院まで歩いて通っていた。杖がとれる当日は、歩行の速度をより速めようと努めたくらいである。
 診察で、膝をいろいろな方向に曲げてみて、関節がはずれる心配がないことを確認してから、リハビリ室へ。日常生活のための運動は、ほとんどやり尽くしているので、あとは杖なし歩行を実行するだけだ。
 といっても、杖なしで何十年も歩いてきたわけで、それが本来の姿なのだから、一向に問題はない。ただ、階段の上り下り、特に下りる方は難しかった。怪我をしている方から足を踏み出すようにする。正常な方を先に踏み出すと、傷めた側の膝が、微妙な曲がり具合に耐えられないからだ。
 階段における注意点も確認し、杖を返して病院を出る。一ヶ月以上、生活を共にしてきた杖を手放すのは、何となく寂しい気持ちがするとは、異常な心理なのであろうか。
 その日は、午後から夜にかけて二件の取材をこなし、終了後は、快気祝いのビール。
これでもか、という感じでも飲み続けた。
 翌日、前の晩にしこたま飲んだわりには、すっきりした気分で起きることができる。
この一ヶ月間に使い続けてきたエレベータは、もう使わない。杖なしの体で、そんなもの使えるか。
 恐る恐る足を踏み出しながら、ゆっくり階段を下りる。怪我をした方の膝は、まだうまく曲がらないので、少し飛び跳ねるような動きになるが、いずれ普通に動けるようになっていくだろう。
 階段を下りながら、「自由」とう二文字が、強烈に湧き上がってきた。足枷という言葉があるが、それに等しい松葉杖生活。その束縛から、真に開放された実感を、しみじみと噛みしめた。
 今日、私たち日本人は、自由という言葉にあまり関心がないように思える。事実、私もそうだった。しかし、帝国主義・植民地主義全盛の19世紀から20世紀にかけ、文学を始め、自由という主題は、愛や死などに劣らぬ絶大なものとして存在し続けていた。
 その自由を今、肉体を通して感じている。文学などには疎いゆえ、自由という言葉から即座に浮かんだのは、映画『スパルタカス』と『ブレイブハート』の二本であった。
 前者のラストシーンで、磔(はりつけ)にされながら、自由の身となった我が子を見送るカーク・ダグラスの姿。後者の終盤で腹を裂かれ、内臓を引っ張り出される拷問を受けながらも「フリーダム!」と叫んだメル・ギブソンの姿。
 それらを思い出しながら、彼らが追い求め続けた自由と、私が実感した自由の間に、それぞれが置かれた状況の差は大きくても、本質的な違いはない。そう痛感されてならなかった。


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 編集後記 Vol.20(8月23日発売) 
靭帯物語延長戦
 切れた靭帯は元通りにならないのだが、膝は順調に回復し、日常の歩行はもちろん、特定の手技(アッパー系統)は、こなせるようになってきた6月の後半、朝起きたら、靭帯を切った方ではない、右膝に痛みをおぼえた。
 膝の裏側が強烈に痛む。前の晩、酔っ払って転んだのか? この程度なら3日もあれば治るだろう、と放っておいたが、一向に痛みがひかない。それどころか、痛みが増し、どんどん腫れてくる。ついには、足を地面に着くことができなくなってしまった。
 観念して医者へ行く。また、MRI検査だ。しかし、異常なし。どのような動作で傷めたのか、と医者に尋ねられても、記憶がないので答えることができない。泥酔して転んだとばかり思っていたが、擦り傷などの外傷がまったくないので、転んだにしては、おかしい気もしてきた。
 リウマチ、偽通風、細菌感染など、さまざまな可能性を想定して、他にもいくつか検査を行うが、結局、原因がわからない。それでも毎日、膝が大腿よりも太く腫れて、病院で関節液を抜いてもらう。その繰り返しだ。一本ではあるが、松葉杖生活に戻ってしまった。
 倉本成春先生が心配してくださり、取材ではなく療法院へ伺う。抗生物質で強引に腫れを抑え、その上で鍼や灸を施していただいた。鍼灸の即効性は絶大で、その場では痛みがすぐにひき、普通に歩くことができてしまう。
 倉本先生の指示により、松葉杖をやめ、正しいバランスで歩行し、患部を適度に冷やす日々を送る。それと、アルコールは禁止、とも言われてしまった。画期的なことに、お酒を11日間飲まなかった。これだけの期間飲まなかったのは、15年ぶりである。
 腫れが再発せず、痛みが出なくなるまでには、それからさらに3週間ほどかかった。
8月に入ると、練習に復帰し、下半身の筋力トレーニングも再開することができた。
 片足だけでなく、両足が使えない、恐ろしい状況を脱して、長い暗闇のトンネルから抜け出せたような気分である。冬が終わって春が来るように、雨が上がって晴れ間が出るように、夜が終わって朝日が昇るように、肉体が回復していく。地面を踏みしめながら、どれだけ天に感謝したことだろう。
 先日の練習では、蹴りをアドバイスする際、お手本のつもりで人を蹴ってみた。バチン!という音が響く。何と心地良い手(足)応えか。この感触が、格闘技における醍醐味の一つだ。
 翌日の筋肉痛が、また心地良い。自分がわずかずつでも成長しつつある実感が、久しぶりに甦った。それは無上の歓びである。「BUDO−RA」は今月号で終焉し、次回からは「格闘伝説」に変わる。月刊誌「BUDO−RA」は終わっても、私個人は武道・格闘技との関わりを、死が分かつまでやめられそうにない。


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