■物語の構造分析 par ロラン・バルト(笑)
『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』(以下エピソード1と記す)の予告篇には、本当に興奮させられた。いったいこれは何だ、と思わせる生物やら機械やらが続々登場し、それらの正体を知りたいがために、この映画を特集する雑誌を買い漁ったくらいだ。
世に言う映画評論なるものを一切読まない私だが、エピソード1の情報だけ得られれば十分でありながらも、映画雑誌を手にすれば、自然に評論なる部分にも目がいってしまうのは致し方のないところだろう。
数十年にも及ぶ歴史を持つ映画雑誌を、何年か振りに購入し、そこにあるエピソード1の評論を少しだけ目にしたところ、映画評論なるものの状況が、映画の誕生以来、ほとんど変化していないことを知り、愕然としたものである。
何もお話や状況設定、展開などについて、いちいち目くじらを立てることはないだろう。だいたい、潜入と脱出、出合いと別れ、旅立ちと帰還など、あらゆるジャンルの映画に通底する物語の基本構造を有したエピソード1の脚本は、決して優れてはいないけれど、映画史に従順な素振りを見せているだけでも合格ではないか。
現在、世界中で量産されている映画の基本構造は、ほとんどが共通したものである。『タイタニック』を見ても一目瞭然だ。船への潜入と脱出、主人公の出合いと別れ、イギリスからの旅立ちと数十年を経ての船への帰還。まるっきり基本構造は踏襲されているではないか。
そこに、枝葉ともいえるわずかな変化を、大げさな技術を駆使して付け加え、世界的な大ヒット作が生まれたのだ。この程度の変化を過大視して、映画史を誤解し続けることは、映画の魅力からできる限り遠ざかろうとする行為でしかない。
■映画の技術とは何か
エピソード1において注目しなければならないのは、その物語ではなく、物語を語るに当たって駆使されて技術である。実はこれは、どの映画を見る場合においても重要な問題なのだが、その点については今回は述べない。
エピソード1に登場する、いくつかの惑星、そして無数のクリーチャーたち。こうしたものを、デジタル技術が可能にしたことは、それこそ無数の報道により、明らかだ。
重量感あふれる宇宙船の機体、地球とは違った世界、そして生命を吹き込まれたクリーチャーたち。特に、人間とクリーチャーたちが「共演」するシーンが映画の大半を占め、驚異の『キング・コング』やレイ・ハリーハウゼンものを経ながら、現代のデジタル全盛時代においても、彼らの精神がしっかり受け継がれていることを知ることができるのは、喜ばしいかぎりだ。
見たこともないものを具現化する。これを最先端のデジタル技術が可能にしたわけだが、映画の技術とは、実はこうした面とは性質を異にしている。ジョージ・ルーカスの陥った誤りとは、この点をまったく理解していないことなのだ。
映画の技術とは、世界をいかにフィルムへと定着させるかに尽きている。その世界とは、現存するものであっても、存在しないものであっても変わりはない。生きている俳優をとらえることよりも、エイリアンをとらえることの方が偉いわけでは決してない。
どうとらえるか。これが問題なのだ。ここで本連載の第3回『ガメラ3 邪神覚醒』で書いた部分を引用してみよう。
<黒澤にしては珍しい傑作『隠し砦の三悪人』で、馬に乗った三船敏郎が刀を構えたまま相手を追跡する場面がある。許しがたい、と何度でも書くが、疾走する馬をとらえるため、カメラを左から右へ振る「パン」という技法を使っているのだ。
黒澤はかつて、ジョン・フォードの『驛馬車』という、これも人類が到達した最高の映像なのだが、これに対し、カメラが馬と一緒にいつまでも移動していくのは現実的ではない、人間の目はあのように見ることはできない、といったことを発言している。
映画の神様ジョン・フォードに対して、聞き捨てならない発言だ。人間が見ることのできない芸当を無理矢理やってやろうじゃないか、というのが映画の健全な精神なのであり、あくまで人間の見た目で作れば、それが「現実」的だ、と解釈してしまうところが、正にリアリティの追求なのであって、これが映画とは別種の努力であることは先に述べた。
猛スピードで走る馬と一緒にカメラを移動させてしまえ、という乱暴な発想に始まり、馬車にカメラを乗せたのでは揺れて撮影できないから、レールを敷いてやれ、ということになって映画の撮影技術が革新され、人類がかつて見ることのできなかった新たな映像が誕生する。>
エピソード1で、『隠し砦の三悪人』を決定的に模倣しているのは、ポッド・レースのシーンである。ここで、何度かパンを使用し、『隠し砦の三悪人』に似たショットを再現している。ルーカスにしてみれば、黒澤の言う「人間の目が見る現実的なショット」を忠実に目指しているのだろう。
存在しないものを見せるために、全精力を傾けながらも、それらをとらえる際には、極めて低俗な手法しか駆使しえない。人間の見る限界とは、それがすなわち映画の限界ではなく、人間の限界が生じたところから、映画はスタートするのだ。
ルーカスにおいて、徹底して欠けているのは、こうした基本的な視点である。彼のこうした愚才がエピソード1の世界を著しく限定する枷(かせ)となる。宇宙空間や砂漠が描かれても、それらは広大と表現されるような空間的拡がりとは無縁である。それどころか、運動をとらえること一つとっても、自ら動くことを禁じ、無駄に不自由な世界を作り出すばかりなのだ。
■アクションの不満
物事をとらえるショット自体に束縛感の強いこのエピソード1で、素晴らしいアクションを期待することなど、どだい無理なことだった。リーアム・ニーソンとユアン・マクレガーの動きが、何と遅過ぎることか。あの程度の動きでOKだったとは。
アレック・ギネスのオビ=ワンは、動きこそ小さいながら、そこそこのスピードはあった。老優のアレック・ギネスよりアクションが遅くてどうする。
それに加えてダース・モールのレイ・パーク。こいつがまた遅い。雑誌の紹介を見ると、何やら少林拳やらウーシュー拳なるものの使い手とか。少林拳はともかく、「ウーシュー」って、「武術」の中国語発音ではないか。これはいかがわしい。
ま、その動きを見れば、偽物でないことはわかるが、あくまであれは表演用の動き。つまり、空手にすれば、組手の試合をせずに、型だけやってる人ということだ。あの程度の動きで、リー・リンチェイ以後のカンフー・アクションを演じられると思ったら、たいへんな間違いである。
エピソード1はカンフー・アクションではない? もちろん、そうだが、カンフーの要素を取り入れた時点で、これは疑似カンフーなのだから、カンフー側からどう言われようと仕方がない。
あんな生ぬるい動きを見せられ続けるのだとしたら、エピソード2はとても心配だ。ハリウッドではジェット・リーと名を転じたリー・リンチェイをジェダイ、もしくはシスに起用するなら、以後の展開は大きく変わってくるだろう。
これはカンフー・アクションに限ることではない。たとえばドロイド軍団とグン・ガン族の合戦シーンで、バスター・キートンの『セブン・チャンス』が再現されるが、これが短か過ぎる。並の肉体をもってしては絶対に再現不可能のキートン・アクションを、新しいテクノロジーで再現するのだったら、それはそれで十二分に満足し得るシーンとなったはずだ。このレベルの映画を引用するのだから、もっともっと長く引用したところで、誰が文句を言うだろうか。
宮殿への侵入(あるいは帰還というべきか)で、危機一髪に陥ったアミダラのところへ、影武者が駆けつけると、その瞬間女王は椅子に隠してあった銃を取り出し、従者に投げ渡す。明らかにハワード・ホークスの瞬間だ。
しかし、キートンが短か過ぎたと同様に、ここではあまりに工夫がなさ過ぎる。オリジナルのホークスは、その時点で驚くべき仕掛けを用意していた。
『赤い河』では、ライフルを手にしたウォルター・ブレナンが、本来なら自分でそのライフルを撃つところを、自分で撃つことなく、わざわざジョン・ウェインに投げ渡している。「ライフル・アクションはデューク(ジョン・ウェインの愛称)の受け持ちだよ、しかし、じいさん(ブレナンのこと)には、投げるくらいのアクションはやってもらおうか」といったホークスの美学が全面に出た、映画史上屈指の感動的なシーンである。
その発展形である『リオ・ブラボー』は、本当にライフルを投げるショットを発展させてしまった。リッキー・ネルソンがジョン・ウェインにライフルを投げ渡し、そのライフルが宙を待っている瞬間に、ネルソンは腰のコルトを抜いて敵を倒してしまう。
我々は、こうした胸のすく、といよりは驚異といってよい瞬間を数々目にしてきたのだ。にもかかわらず、それらがまるで存在していなかったのごとく、銃を安易に投げ渡すショットを準備してしまうとは。ストーリーがお子様向けなどということは、映画にとって何ら不名誉なことではない。しかし、アクションが、それをとらえるショットが、映画史を無視したものであることは、徹底的に糾弾されてしかるべきものなのである。
■Feel,don't think……
最後に、どうしても気になるあの言葉を検討しておかねばならない。クワイ=ガンが、ポッドレースに赴くアナキンに対して口にする「Feel,don't
think」である。すでに、いくつかの場でこの言葉に関しては多くの人が言及されているので、ここで私が蒸し返す必要はあるまい。要は、ブルース・リーの言葉をここで、不謹慎に使ったのか、あるいはブルース・リーへの畏敬を込めて使ったのか、という点にある。
いくら何でも「Feel,don't think」だなんて……、と最初は思ったものだが、次第に考えが変化し始めた。これはもはや極意文や要訣の一種として認められた言葉なのだろう、と。
中国武術での極意「明・暗・化」や「気・精・神」における「化」と「神」の領域であるこの「考えるな、感じるんだ」は、「感じる」という言葉によって、皮膚感覚の重視と誤解されやすいが、説明するまでもなく、これは五感を駆使せよ、との意味である。
思考や偏った感覚(たとえば視覚に頼るといったこと)を使っていたのでは、相手の動きに対応することはできない。相手の動きに自分の体が反応し、決定打が打ち込まれるとき、そこに思考は介在しない。無の状態から攻撃が発せられている。
この概念を、よりわかりやすく表現したブルース・リーの言葉は、今や全世界に認められた極意文なのだ。ジェダイという騎士が使う言葉として、それを引用されるのは、むしろブルース・リー思想や中国武術の思想がより一般化されたものとして歓迎したい。
ただし、この言葉を見聞きすることで、無の状態からの自由な攻撃を発することができるようになると思われたら大間違いだ。極意文とは、長い長い修行を積んだ者だけが理解できるものであり、それを読んで極意が身につくといった性質のものではないことを、肝に命じておかなければならない。
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