■ジョン・フォードか?
曲がりくねった道を、画面の奥から、馬車がこちらへ走ってくる。画面の手前に近づいてきた馬車の前をふさぐように現れるのは、羊の群れだ。
ジョン・フォードではないか。曲がりくねった道という場面設定、画面を構成する、馬車や羊などの要素、そして画面前方へ向かってくる運動。
ジョン・フォードの画面が再現されていることに、まずは驚かされる。しかも、その後には、玄関の扉を開いて外景が映し出され、人物が飛び込んでくるというおまけまで用意されているのだ。
■距離の映画
映画の冒頭に、ジョン・フォードをもってきたことで、何かを宣言しようとしたかどうか。その意図は定かでないが、曲がりくねった道と馬車の運動によって、距離が決定的に重視されていることは明確である。
この映画が、距離の映画であることが、はっきりと意識されることとなるのが、学校の建築現場から遠くに位置する古井戸の存在が提示されてからだろう。井戸と家の往き来は、主人公デイが建築現場の教師を見るためという理由以上に、距離として、遠さとして純粋に意識される。
昼食の用意は、最も興奮させられるシーンの一つだ。厚い木板の上に、食事の入った碗が置かれる。その位置がまた重要で、先生はいちばん遠くにあるものを手にする、と台詞の上でも、距離が語られている。どのようにしてデイの昼食を教師が手にすることになるのか、緊迫感は急上昇する。
教師が町へ帰るシーンで、デイは必死にそれを追いかける。それは距離を縮めようとする行為に他ならない。餃子が地に散乱させられて、そのシーンは終結するが、そこでこみ上げる悲しみは、教師との別れゆえではなく、デイが距離との戦いに敗北したからである。
教師の帰りを、雪の中で待つデイ。ここで馬車が登場し、この上ない幸福を味わえるのは、その馬車に教師が乗っていたからではなく、馬車が近づいた、その距離ゆえである。
これほど徹底して距離を描こうとした映画は珍しい。現在のデイが、先生の遺体を担いで遠路を歩いて帰るという、極めて非合理的な旧習にこだわったのは、説話の上でも、この映画は距離を描くものだ、と宣言しているようである。
■距離への視線
思えば、チャン・イーモウ(張藝謀)は、距離を描くことに対して極めて敏感、かつ繊細な作り手だった。先日見直した『活きる』では、戦場から帰った夫が妻のところへ駆け寄り、距離を喪失させることで幸福感を呼び起こし、嫁ぐ娘が両親の家から離れていき、距離を拡大することによって涙を誘った。
最新作の『HERО』では、暗殺者が、標的である皇帝に近づくことを、百歩や十歩などの歩数を提示し、さらには蝋燭を設置することによって表現していた。暗殺者が剣の最高境地をつかむ瞬間、皇帝が真の治世を悟る瞬間は、両者の距離がなくなり、剣を介在して接触した瞬間ではなかったか。
しかし、それらの映画も、この『初恋のきた道』に比べれば、まだ密度は低い。距離を描くことを純粋に実行したこの映画は、チャン・イーモウ(張藝謀)の比類なき傑作に他ならない。
現代中国映画史上に出現した美女チャン・ツィイーのアップをこれでもか、と見せ続けることは、美女のアップがあれば映画は成立する、という映画史上の原則にしたがい、商業としての映画に、しっかりと折り合いをつける、むしろ戦略的な選択であった。
そうした美女のアップが、時として邪魔に思えてくるほど、この映画における主役は、距離という、目に見えない抽象的な概念であった。距離だけではなく、風、温度など、目に見えないものを、どう表現するか? それは、映画の生命に関わる選択手段なのである。
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