■戦争は今も続いている
エドワード・ズウィックの特徴をなす画面が何であるのか、いまだ把握できていないにも関わらず、デンゼル・ワシントンが小学校の教室に飛び込むショットを見ながら、あ、これはエドワード・ズウィックの映画なのだな、と思ってしまう。原因は問うまい。実に不思議な現象だった。
第二次世界大戦、冷戦、ベトナム戦争……と、アメリカは常に敵を必要としており、湾岸戦争を経て、それが今日も形を変えながら続いていることに立脚し、この映画『マーシャル・ロー』の筋立ては設定されている。
エドワード・ズウィックは、『グローリー』という、バリバリの戦争映画を作り、つい数年前も『戦火の勇気』という、戦争が終わってもなお続く戦禍を描いた傑作を生み出している。
『マーシャル・ロー』は、今なお続く戦争が、これまでとは形を変えて現実化される恐怖を描くもので、『史上最大の作戦』や『バルジ大作戦』などの戦闘を中心に描くスペクタクル大作とも、『赤い矢』や『最前線物語』などの戦場を描くサミュエル・フラー作品群とも、『眼下の敵』や『大脱走』などの戦争を舞台にしたアクション映画とも、『ナポレオン』や『パットン大戦車軍団』などの個人を描く戦争史劇とも、『プライベート・ライアン』や『スターウォーズ エピソード1』などのテクノロジーにものを言わせた特撮戦争映画とも違う、真に今日的な意味での戦争映画たりえている。
なぜ戦争なのか? エドワード・ズウィックは、プロデューサーも兼ねており、恐らくこの題材は彼が映画にしたいものを実現させたに違いあるまい。エドワード・ズウィックは、戦争が好きだから戦争映画を作ったのだろうか?
そんな個人のことを推察するなど、どうでもよいことなのではあるが、私たちが映画と長く付き合っていく上で、忘れてはならない事実がある。それは、映画とアメリカの戦争なのだ。
第二次世界大戦を終えて、アメリカが次なる敵国としたのが、他でもないソ連だったわけだが、ソ連と等しく敵とされたのが、共産主義である。ハリウッドという映画都市が共産主義迫害の攻撃目標となり、多くの優秀な映画人たちが、映画という職を失い、あるいは国外へ逃亡するなどの迫害を余儀なくされたことは、「赤狩り」として映画史の一項目にもなっているはずだ。
赤狩りに限ることなく、アメリカ政府とハリウッドの戦いは、非常に短期間のうちにハリウッドを崩壊せしめた。戦前にその全盛を迎えた夢の工場としてのハリウッドなど今日、存在してはいない。ハリウッドという単語だけが生き延び、アメリカ映画に対する、幻想としての代名詞となって、人々をあざむき続けているのだ。
映画とアメリカの戦いは、『ハリウッド映画史講義』(蓮實重彦著・筑摩書房刊)がその衝撃的な全容を述べているので、ぜひそちらを読んでほしいところだが、この戦争は、今も決して終わってはいない、映画と真剣に取り組めば、必ずアメリカとの戦いを避けることはできない、という意識を持ち続けているのが、他でもないエドワード・ズウィックであり、彼の戦争映画とは、『マーシャル・ロー』で描かれるアメリカとアラブ系の戦争などではなく、あくまで映画とアメリカの戦争が根底にあるのだ。
■帰還の映画
『戦火の勇気』で最も感動的だったのは、戦争で自分を崩壊させられて行き場を失ったデンゼル・ワシントンが、さまざまな葛藤を克服し、我が家へと帰り、玄関に立つラストシーンである。エドワード・ズウィックは、『グローリー』を発表した時点で、D.W.グリフィスとの共通性を指摘されてはいたが、『戦火の勇気』では帰還をラストに持ってくることにより、一層グリフィス色を濃厚にした。
しかし、『マーシャル・ロー』の展開では、帰還の映画を期待するのは難しいな、と思われていた。仕方がなかろう。同じようなラストを続けることは、今の時代には到底無理な話だ。
にもかかわらず、エドワード・ズウィックは、帰還のラストを実現してしまった。臨時収容所に強制移行されたアラブ系の市民たちが解放され、家族と対面するのである。『戦火の勇気』とは、また違った形で、エドワード・ズウィックは帰還を変奏してみせた。完全に意表を衝く形で主題を変奏し反復する。これは、映画と映画史に敏感な感性の持ち主だけに可能な芸当に他ならない。
今も続く戦争に背を向けることなく、グリフィスの主題を貫徹する。エドワード・ズウィックは、アメリカとの戦争を孤独に受け継ぐことによって、皮肉に聞こえるかもしれないが、アメリカ映画最良の監督になってしまった。
アメリカ映画――この呼び方が果たして適切なものであるのかどうか。それに正しい判断をくだせるほど、実は私は映画を見ていない。
監督:エドワード・ズウィック
脚本:ローレンス・ライト、メノウ・メイエス、エドワード・ズウィック
CAST
デンゼル・ワシントン、アネット・ベニング、ブルース・ウィリス
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