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 23/第弐拾参篇 ザ・ビーチ 

■ヨーロッパの敗北
 森の中で頭のおかしくなったディカプリオが、農民(と訳されていた)の銃を奪い、周囲の人間たちを片っ端から撃ち殺し始める……、なんて展開を予想していたら、何ら破綻が起こることなく、予定調和的に事は収まってしまう。

 イギリスというホームグラウンドを離れ、アメリカという制約だらけの環境において、どこまで暴走できるかが、この映画の監督ダニー・ボイルに対する期待であったが、彼の毒気は完全に抜き取られ、完成された映画は、正に腑抜けという表現がふさわしい仕上がりと化していた。

 その出世作『トレインスポッティング』で見せた、トイレに飛び込み、そこから水中シーンへと転じる描写は、ボイルらしさを感じさせる彼の特質足りえており、『ザ・ビーチ』でも、ヴィルジニー・ルドワイヤンらを崖から飛び込ませることによって、ボイルらしさを反復しようとする意思は感じられた。

 しかし、トイレに飛び込むことと、崖から飛び込むことの差は歴然としている。中途半端な高さの崖から、安全に水の中へ飛び込むことは、ボイルらしくあろうとする映画の姿ではなく、単に弛緩したアクションと堕した、どこにでもあり、誰にでもできる程度の場面にしかなっていない。

 こうした弛緩ぶりは、説話の上で一層明らかになっている。コンラッドの『闇の奥』を原作としたフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』を、平板になぞっただけの脚本に、これといって抵抗や自己主張を介入させることもない迎合ぶりは何なのだろう? せいぜいバンコクのゲストハウスで宿泊客たちに『地獄の黙示録』のヴィデオだかテレビ放映だかを見させることで、ちょっとした皮肉を入れたつもりになっているダニー・ボイルの表情を想像すると、気恥ずかしさを超えて、不快感が高まってくる。

 共同体の、予定調和にふさわしい壊滅を引き起こすのが、ロシアン・ルーレット。
 『ディア・ハンター』で、あれだけ非難されたロシアン・ルーレットを、またしても東南アジア人が強要してくるとは。「芸がない」といった次元ではない。崖からの飛び込みで、事態は決定的になっていたが、貧弱さへの落下はなおも続いていたのだった。

 ヨーロッパで成功を収めた映画監督が、アメリカに呼ばれる事例は決して少なくない。戦前なら、F・W・ムルナウ、フリッツ・ラング、エルンスト・ルビッチ、アルフレッド・ヒッチコックなど、偉大な名前が瞬間的に浮かんでくる。

 ところが、戦後から現代にかけては、彼らのようにアメリカでも大成功を収めた人をすぐに思い浮かべるのが難しくなる。むしろ、賢明な監督ほど、おいそれとアメリカなどには渡っていないことに気づくはずだ。フランソワ・トリュフォーが、監督をするのではなく、出演者としてアメリカ映画に参加していることは、ひとつの意思表明であると見なしてもよいだろう。

■アメリカとどう関わるか?
 先に『地獄の黙示録』で名前が出たフランシス・コッポラは、ヨーロッパの監督とアメリカ映画の関わりにおいて、映画史でかなり重要な役割を果たしている。『地獄の黙示録』を公開した後、コッポラはゾーエトロープ・スタジオを設立するわけだが、そこで制作する作品の監督としてドイツから強力な手腕の持ち主を招聘する。

 『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』『アメリカの友人』など、傑作を連発していたヴィム・ヴェンダースに、『ハメット』の監督を一任したのだ。『ハメット』は、製作者側と演出側、あるいはアメリカ側とドイツ側といった単純な対立概念を吹き飛ばすかのようなヴェンダースの、のらりくらりとしたとらえどころのない演出が異様な魅力を放つ作品ではあったが、興行的には失敗し、ゾーエトロープ・スタジオの終焉にも一役買う結果となった。

 『ハメット』を撮った同年、ヴェンダースはフランスとの合作で『ことの次第』という、とてつもない傑作を世に放ち、その2年後には、自ら「私は、最後のアメリカ映画を作ったつもりだ」と発言する『パリ、テキサス』を生み出し、コッポラとゾーエトロープ・スタジオの没落とは逆に、80年代を席巻する勢いで疾走しながら、『ベルリン 天使の詩』へと行き着くのだった。

 フランスシス・コッポラ製作、ヴィム・ヴェンダース監督の『ハメット』が、彼らにとって良くも悪しきもひとつの契機となったことは間違いない。ここで重要なのは、ヴェンダースのような実力者ですら、アメリカで映画を監督することは、非常に困難だったのだ、という点である。ましてや、『トレインスポッティング』程度の成功しか収めていないダニー・ボイルが、アメリカでいったいどれだけのことができるのか、これは『ザ・ビーチ』の完成を待つまでもなく予想できたことではないか。

 ヴィム・ヴェンダースがアメリカを離れ、アメリカ資本とアメリカの制作システムから解放されることによって作り得た映画『パリ、テキサス』を、彼はなぜ「最後のアメリカ映画」と呼んだのか? それを理解するには、ヴェンダースがいくつかの自作の中ではっきりと刻印しているアメリカ映画への思い入れや、ゾーエトロープでの仕事とアメリカ映画界の実情など、複雑に絡み合った状況を知る必要がある。

 そうした諸問題に対する意識があまりにも希薄過ぎたダニー・ボイルの『ザ・ビーチ』が、なぜあれほどの惨状を呈したのか。それは、ヴェンダースが「最後のアメリカ映画」と発言した真意を汲み取るよりも、はるかに理解しやすいことなのである。

ザ・ビーチ THE BEACH
監督:ダニー・ボイル
製作:アンドリュー・マクドナルド
脚本:ジョン・ホッジ
原作:アレックス・ガーランド
主演:レオナルド・ディカプリオ、ティルダ・スウィントン、ヴィルジニー・ルドワイヤン、ロバート・カーライル

 

 

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 24/第弐拾四篇 アンドリューNDR114 
■一人二役とは何か
 映画の持ち得た魅力的な手法ながら、最近ではすっかり使われることがなくなってしまったもののひとつに、一人二役がある。近年では『仮面の男』くらいだったろうか。

 レオナルド・ディカプリオにより演じられる2人の王が顔を合わすシーンは、『仮面の男』の中で最も緊迫したものとなるはずだったが、合成技術の進歩は、同一画面内における同一俳優の共演という異常事態を、我々が驚きをもって受け入れる自由を奪ってしまうばかりであった。

 むしろ、合成技術が今日ほど発達していなかった時代にこそ、一人二役は、その魅力を余すことなく発揮していたのである。今は断片しか見ることができぬ『新版大岡政談』で、大河内傳次郎は、丹下左膳と大岡越前という、まったく異なるキャラクターを演じていた。

 『續大岡政談』に至っては、大岡越前、神尾喬之助、茨右近の三役。未完となった『女人曼陀羅』でも、山県治郎、山県大治郎、五月雨左近の三役とエスカレート。映画史において、大河内傳次郎ほど、一人複数役を率先して演じた俳優はいないだろう。

 大河内傳次郎に並ぶ偉大な名前がエドワード・G・ロビンソンであり、彼の主演作『俺は善人だ』(監督はジョン・フォード!)では、忘れがたい一人二役を演じている。

 エドワード・G・ロビンソンが演じるのは、脱獄したギャングの親玉と、気の弱い会社員である。前者が一般人と変わらない風貌であったり、後者がとても怖い顔をしていたりすることはない。ギャングの親玉はとても怖い顔で、会社員は気の弱い奴をそのまま映画にした顔なのだ。

 ところが、この2人は、同じ顔である。そんなバカな……。しかし、映画ではそんなバカなことが公然とまかりとおるのである。同時に、エドワード・G・ロビンソンだからこそ、こんなバカなことも可能になるのだ。嘘だと思うなら、是非一度この映画を見てほしい。

■時間表現への挑戦
 大河内傳次郎とエドワード・G・ロビンソンを語り始めたら、『アンドリューNDR114』などには辿り着くはずもないのが映画の常識というものだが、それでもここには、懐しさなどを超えた、注目すべき一人二役が実現されている。

 ロバート・アルトマンの『相続人』で主役をはっていたくらいだから、かなりの曲者女優と思われていたエンベス・デイヴィッツが『アンドリューNDR114』で演じるのは、NDR型アンドロイドに心を通わせるリトル・ミスと、その孫ポーシャである。

 リトル・ミスとポーシャが顔を合わせるショットはごくわずかだが、そこは老け役のメイクで処理。重要なのは、そのショットにおける技術的な処理ではない。若い頃のリトル・ミスと、髪の色は違っていても瓜二つのポーシャを見て驚くのは、アンドリューだけでなく、我々も同様なのだ。

 アンドリューの旅が、数十年という長い年月を要していたことに驚き、同時にアンドリューに対する最大の理解者であるリトル・ミスが、もう長くはない命であることに、アンドリューと等しい喪失感をおぼえ、初対面のアンドリューに拒絶反応を見せるポーシャに対し、同じ顔なのに、リトル・ミスの孫なのに、という落胆を余儀なくされるのである。

 ここで、一人二役は、時間の表現へと姿を変え始める。通常、一人二役は、同じ時間、同じ空間に、違った個体が、同一俳優の姿で存在するのだが、合成技術の発達により、そうした事態が驚異ととらえられにくくなった現代において、もう一工夫してみようじゃないか、と挑んだ結果が、『アンドリューNDR114』における、時間表現への移行であった。

 リトル・ミスとポーシャは、別の個体ではあれ、性格的に限りなく同一人物に近くなっていく。アンドリューは、リトル・ミスとは果たせなかった感情の支障なき交歓を、ポーシャというもう一人のリトル・ミスと、数十年の後に実現する。それがこの上なく幸福なものとして伝わってくるのは、リトル・ミスとポーシャが別々の女優によって演じられず、いずれもがエンベス・デイヴィッツによって演じられたからに他なるまい。

 大河内傳次郎をひたすら見続けたい、大河内傳次郎でスクリーンを埋め尽くしてほしい、といった映画の原初的な欲求は、今日では成立しがたいものである。エンベス・デイヴィッツを2時間11分ずっと見ていたい、と願う人がいても、それは無理な相談でしかない。

 だが、一人二役に、まだ可能性は残されているはずだ。それを、『アンドリューNDR114』の一人二役キャスティングは実証したのである。こうなれば、その実証を己の肉体を通して行ったエンベス・デイヴィッツその人にも、自然と目が向かざるを得なくなろう。ロバート・アルトマン作品に主演し、『アンドリューNDR114』で2回も老婆になってしまう。そんな女優にこそ、真に意欲的な映画俳優の資質が備わっているのである。


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