■正統時代劇とパロディ時代劇の同時進行
冒頭ショットは、いきなり空。1939年にゴダールか、と思うのは、時代錯誤もはなはだしいが、やはり冒頭に空のショットが飛び込んでくるのは、ショッキング、かつ胸踊らされるものがある。
「この青空の下」(だったか?)「雨が降る」「血の雨が降る」……文句は正確に憶えていないが、こんな3つのタイトルがつながる。サイレント映画によく使われる手法を介して、合戦シーンが登場する。なるほど、これは血の雨だ。
2つの陣営が接近し、合戦が今や始まろうというところで、ショットは変わり、両陣営の先頭に立っていた片岡千恵蔵と原健作の2人が、刀を地面に突き刺して一休みしている光景となる。
この2人は用心棒で、合戦だと思っていたのは、やくざ同士による出入りであった。やくざ同士の出入りを、真横からとらえるそのショットが『用心棒』っぽいなあ、と感じていたが、陣頭に立っていた用心棒が抜け出てしまい、おまけに原健作の手当ては一両二分で『用心棒』の藤田進とご丁寧に同額なのだから、恐れ入る。
『用心棒』は、決してオリジナリティ溢れる内容だったわけではなく、複数の脚本担当者たちが、ある程度戦前の時代劇をよく知り、観客や批評家たちが、戦前の時代劇を知らないか、あるいは忘れてしまっていただけのことなのだ。
『用心棒』が、この『春秋一刀流』始め、いくつかの時代劇を前提にしたパロディであることはよくわかるが、『春秋一刀流』そのものも、すでに時代劇のパロディと化している。山中貞雄の時代劇が、マゲを着けた現代劇、と評されたとの同様、丸根賛太郎作品もそれに近い性質を持っている。
■美しい空間、美しい運動
素晴らしいのは、その空間把握。宿屋で夜中まで飲んでいるシーンにおいて、全員が見えるショットでは、窓が開いて外の夜景が見えているのに、千恵蔵、原健作、志村喬の3人をとらえたショットでは、本来なら開けている窓が入ってしまう角度にもかかわらず、それが入っていない。
本来なら、これは間違ったショットなのだろう。しかし、その間違いぶりがスリリングで、しかも作り手の確信犯的な、「まあ、細かいことは気にしないで……」といった態度が伝わるような気がしてくる。
終盤、出入りの現場に千恵蔵が駆けつけるシーンでは、全ショットが、画面奥へと道が伸びる奥行ショットだ。出入りに乱入してからも同様。ラストは、奥へと走るのとは逆に、こちらへ向かって千恵蔵がひたすら走りながら斬り続ける。最近、横の世界に限定された時代劇を作ってしまった市川崑などには、到底不可能な空間把握能力が、ここに厳然と露呈している。
それだけではない。千恵蔵がいったん斬り始めると、何人かを斬って見栄を切るまで、ショットは途切れることがない。千恵像の名人芸を堪能してもらうためだ。
今、名を出した市川崑の貧弱な空間時代劇『どら平太』では、斬る運動をぶつ切りにし、おまけにスローモーションなども挿入して、斬るアクションへの陶酔をひたすら遠ざけている。
リー・リンチェイ(ジェット・リーと呼びたくない気持ちはわかってもらえると思う)が、やっとその本領を発揮するのか、と期待された『ロミオ・マスト・ダイ』でも、『どら平太』ほどではないが、リー・リンチェイのアクションが、やはり引き裂かれたまま提示されていた。
真に魅力的なアクションに、編集は必要ない。それは映画史自身が証明しているにもかかわらず、アクションの分断をひたすら続けるとは、これほど醜い行為はない。
こうしたものに対する鬱積を晴らしてくれるのが、60年以上前の映画であるところに、映画史のはらんだ難題を、改めて思い知らされてしまう。
春秋一刀流
1939年日活京都作品
監督・脚色・原作 丸根賛太郎
撮影 谷本精史
音楽 高橋半
出演 片岡千恵蔵、澤村國太郎、轟夕起子、志村喬、原健作
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