■窓は別れの舞台装置
孤児院から少女が里親にもらわれていく。自分を引き取ってくれる相手がいないことを嘆く少年が、その光景を窓から見つめる。トビー・マグワイヤの演じる主人公ホーマーは、少年を慰めながら、彼と並んで窓から、少女と里親たちの乗った自動車を見る。
映画のスチールとして頻繁に紹介されるこのショットは、寒さと温かさを同時に伝える力強さを放っているが、それ以上に、別れを演出するための舞台装置として、窓が選択されたことに深い感銘をおぼえずにいられない。
少女に続いて、ホーマーまでもが、孤児院を去ることとなり、彼に想いを寄せるメアリー・アグネスもまた、かつてホーマーたちがそうしたように、窓から自動車を見つめる。
『インサイダー』では、物語の力に屈してしまった、映画の窓が、この『サイダーハウス・ルール』では、物語と共闘して映画を輝かせながら、映画が始まってさほど長い時間が経っていない時点にも関わらず、絶大な存在感を獲得してしまったのである。
■ガラスへの変容
ホーマーを窓から「見送った」メアリー・アグネスは、突如部屋から走り出し、洗面所の鏡の前に立つ。涙を流している自分の頬を左右の手でぶつという悲痛この上ない行動がここでとられるわけだが、彼女の顔を映す鏡が、窓に近い形状を保っていることに気づく。
横長の窓に対して、縦長ではあるのだが、その四角い形は、窓が変容を伴って再現されたものとしてとらえられる。さらには、ガラスという薄い板状の形状までもがその印象を強め始めるのだ。
ガラスは、時には海辺で、シャリーズ・セロンのキャンディが拾い上げる、波によって研磨されたガラス片へと変奏され、時には野外劇場で、映画を映されることなく存在し続ける大スクリーンとなって、キャンディとホーマーのカップルを見つめ、あるいは実際にスクリーンと対峙している私たちに映画外と映画内の相似形を意識させ、さらには、マイケル・ケインのラーチ医師が偽造するホーマーの医師免状へと姿を変えながら、純粋に視覚的な悦びとして、私たちを刺激し続ける。
■死に対してガラスはどう変化したか?
ビニールでできた呼吸器(なのだろうか?)に入って、スプライスだらけの『キング・コング』を見ながら死んでいく少年ファジー。この死をも上回る死を、ラーチ医師は体現しなければならなくなる。
毎日の日課どおりに、エーテルをたらす麻酔マスクを口につけながら、ラーチ医師は、窓辺で(!)息を引き取っていく。左手に握られたエーテルの瓶は割れ、ラーチ医師の鮮血がエーテルに薄められた形で流れ出る。窓から鏡、鏡からガラス、そしてガラスの瓶が割れるとき、生命が終焉するのだ。
申し分ない設定であるが、さらに驚くべきは、駆けつけた看護婦が医師の頭を抱きかかえながら、窓を開けることである。新鮮な空気を入れるという、いかにも納得のいく行為なのであるが、それまで窓は人物と人物を瞳を介在させてつないでいながらも、あくまで互いの接触を遮る障害物でもあった。
その窓が、この映画において初めて開かれる。それが愛する人の死という瞬間であったことは、窓がこの映画において、いかに生物的な活動を続けてきたかを、雄弁に語る証しである。
それだけではない。ラーチ医師の死を聞いたホーマーは、呆然と窓を見つめるのだが、このサイダーハウスの窓には、木の格子だけで、ガラスが入っていない。初めて開かれる窓、ガラスの入っていない窓……。『サイダーハウス・ルール』の窓は、これほどまでに私たちを撃ち続けてやまないのだ。
■反復と円環
足を洗って新しい生活を始めようとしていた主人公が、やむにやまれずまた犯罪の世界へと引きずり込まれていく――暗黒映画の定番ともいえる胸踊る展開によって、ホーマーは、医療活動を余儀なくされ、医師として働くことを決意する。
『マーシャル・ロー』を帰還の映画だと、映画日誌にかつて書いたが、それを遥かに超えたレヴェルの帰還が、『サイダーハウス・ルール』のクライマックスに待っている。
まさか、子供たちが窓の中からホーマーを迎えたりはしまい。いや、そんな見え透いた小細工を使わなくたって、もう十二分に満足している――そう思いながら、ホーマーの帰還を心から歓迎していると、いや、いたのだ。一人だけ、窓から彼を見つめる者が。ホーマーの門出を一人、窓から見送ったメアリー・アグネスが、ここでも一人ホーマーの帰還を窓から見つめる。
またしても彼女は突如走り出し、鏡の前に立つわけだが、今度は平手打ちをくらわすのではなく、化粧を確認するという、この上なく幸福な反復がここにある。
そして、ラーチ医師の偽造した医師免状は、『荒野の決闘』でヴィクター・マチュアにウィスキーのグラスを投げつけられる医師免状の額とは正反対に、輝くガラスの額に収まり、ホーマーの帰還を迎えるのである。
映画において、真に有機的たりうるのは、人物や生物に限るものではない。窓やガラスなどの、ごく日常的な物質たちが見せてくれた表情や活動は、言葉や演技などの次元を超越し、純粋に映画として私たちを幸福な瞬間<とき>へと誘い続けたのである。
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