■ オーナー・コーチ・選手=製作者・監督・俳優
利益のことしか考えないオーナー。一筋縄ではいかない曲者揃いの選手たち。両者の間を取り持ちながら往き来するコーチ。何だ、映画作りの構図と同じではないか。
オーナーは製作者、選手は俳優、そしてコーチが監督。例えばハワード・ホークスの『ピラミッド』が典型的に、ニコラス・レイの『大砂塵』が奇形的に具現化したように、映画制作にまつわる人間関係を、映画の中における人間関係に移し替えて表現する手段は、これまでにも数多く実現されてきた。
オーナー、コーチ、選手間の葛藤が、そのまま映画作りに投影されるとなれば、これは盛り上がらないはずはあるまい。しかし、そうした甘味な思い入れを簡単に許してよいものだろうか、と自分を戒めながら映画の進行に身を任せていると、登場人物たちの生活がフットボール一色に染められている事態が明らかになり、キアヌ・リーヴスが海底で見つけたボール型の盾を使って一人フットボールを始めてしまうファー
ストシーンがいかに重要な意味を担っていたかを改めて思い知らされることになる。
■ 蝋燭とフランソワ・トリュフォー
映画作りの映画は、映画史において何本か傑作が作られてきたが、今日ではそうし た題材に挑むことすら困難になってきており、映画作りの映画に成功したものを懐古することで、せめてもの秘かな愉しみとするしかないのが現状となっている。そうした一本、というか最高傑作として『映画に愛をこめて アメリカの夜』を挙げることができよう。この映画を監督したフランソワ・トリュフォーは、自らが映画内で映画監督に紛し、職業俳優としての自信をすっかり喪失してしまったジャン=ピエール・レオーに、「君も僕も映画の中だけでしか生きられない人間だ」という言葉を投げかけて諭している。
このセリフに似た発言が、コーチ役のジーン・ハックマンから発せられるわけでないにもかかわらず、フランソワ・トリュフォーの発した言葉の重みが濃くなりはすれども、薄まることはまったくない。『リプレイスメント』を見ていることで、なぜか映画作りの映画→フランソワ・トリュフォーという意識の流れが強まっていくのである。
決定的な瞬間は、キアヌ・リーヴスが、クォーターバックの座を追われ、恋人との待ち合わせに出向くこともできずに港でうちひしがれるシーンで訪れる。彼女は、自らが経営する酒場で、閉店後、2本の蝋燭を灯しながらキアヌ・リーヴスを待つ。いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう? この時間経過を示すのが、2本の蝋燭に他ならない。
才能の有無とは、こうした表現で明らかになる。時間の経過を時計の針で示すようなら、それは無能の証拠であり、例えば山中貞雄のような天才ならば、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』で見せたように、焜炉で焼いているお餅の膨れ具合で表現することができるのだ。
蝋燭に火を灯してテーブルに置いた後、蝋燭のショットは3つしかない。1つ目は半分くらい溶けた蝋燭を彼女が横から見つめ、次は3分の2ほど溶けた蝋燭を後方から見つめ、最後は残りわずかな蝋燭を吹き消すだけだ。『リプレイスメント』に見え隠れしていたフランソワ・トリュフォーの影が、ここで完全に視覚化される。先述の『映画に愛をこめて アメリカの夜』で蝋燭のトリックを重要なシーンとして用意したトリュフォーは、『緑色の部屋』という、もっと過激な形で蝋燭が主役となる映画を作ってしまった。映画史において蝋燭と最も親密だった作り手の一人であるフランソワ・トリュフォーを現代に甦らせるという暴挙に近い離れ業を『リプレイスメント』はやってのけたのである。
■ トリュフォー、小津、そして現代へ
映画作りの映画に近づくことを、もはや禁ずることはない。『リプレイスメント』の意向に無抵抗で身を委ねようではないか――、そう思う間もなく、もっと強烈な一瞬が不意に襲ってくる。それは、フランソワ・トリュフォーを降臨させた蝋燭を吹き消す一瞬である。蝋燭の照明がなくなれば、画面は真っ暗になるはずだ。しかし、蝋燭の炎が消えてわずかな間があってから、画面は暗くなる。
スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』じゃないのだから、蝋燭の照明だけで撮影するなんてことはしていない。これはその証しなのだろうか。画面内の照明(ここでは蝋燭)を消してから、ほんのわずかな間をおいて暗闇を導入する――、これこそ小津安二郎が繰り返し用いてきた手法であり、映画を最も実感できる瞬間の一つであった。そんな瞬間がこうしてさりげなく再現されるところに、フランソワ・トリュフォーの降臨を上回る衝撃を憶えずにはいられない。
この陶酔感は、クライマックスのゲーム中も持続し、いささかも下降することはない。そこで待っているのがジーン・ハックマンの笑顔というラストシーンだ。主役を支える人物の笑顔で映画を締める。何と幸福な結末なのだろう。ジーン・ハックマンなる素材があってこそできる顔のアップというラスト。この笑顔を見続けていたい気持ちを裏切るかのように、エンドタイトルが始まってしまう。
だが、それでいい。映画には終わりが不可欠なのだから。ラストに登場する、主人公を支えてきた人物の笑顔。『ガッジョ・ディーロ』で、主人公のロマン・デュリスを支え続けたローラ・ハートナーが、オンボロ自動車の中でまどろみから目を覚ましてロマン・デュリスに微笑みかけるラストシーンが、すぐさま思い浮かんでくる。フランソワ・トリュフォーや小津安二郎といった映画の大家というべき存在との交信を経て、共に苛酷な現代を生きるトニー・ガトリフへ向けた目配せをするこの『リプレイスメント』は、映画の現在を優れて体現する映画として両手を広げて迎え入れたくなる味わいを、全面にみなぎらせている。