■ 鳥のイメージ
男たちが、何やら四角いものを背負って歩いている。実に奇妙な光景だ。こんな光景をフィルムに収めただけで、この映画は八割方成功したといってよかろう。
しばらくすると、説話上、彼らが背負ったものが、黒板であることが判明するわけだが、黒板としての機能が生かされるよりも、ひたすらその背負った姿ばかりが目を刺激してやまない。それは、まるで羽を広げた鳥のようだ。
延々と地を歩む彼らの上を、突然、飛行機が飛来する。鳥のような姿の人間から、空を飛ぶ飛行機へとイメージが移行するのだ。さらには、飛行機が飛び去った後に画面を覆うのは、群舞する鳥たちである。
鳥のような形態の人間たち→飛行機→鳥。これが何の意味だ、などと述べることはできない。ただ、似たような形が連鎖していく、ただそれだけのことを、この映画は愚純なまでに淡々と映し出している。
■ 歩行の模倣
鳥のイメージを持つ男たちは、裏物資を背負って運ぶ子供たちに接触し、共に国境へと歩み始める。鳥の形態から、何かを背負って歩くという運動が相似的に模倣され、さらには難民たちの行進へとつながっていく。
この模倣は、黒板を背負った男が、唯一教育的な成果を発揮する、発音の練習にも見てとれる。「ペッ・ウー」という発音を、子供がひたすら反復するさまは、鳥のイメージが相似形として連鎖され、歩く運動が繰り返されることと同じレベルにおいての、模倣なのだ。
映画のクライマックスは、子供たちの国境越えで訪れる。それまで、二本足で歩行してきた子供たちが、羊の群れに交じり、四つん這いで身を隠しながら国境を越えようとするのだ。形態や運動を相似形として模倣する行為が、ついに映画の沸騰点として機能した瞬間である。
■ 素の映画
映画の結末を書いても、この映画なら、問題なかろう。子供たちは、唐突に射殺され、映画は終わる。例えば、学校へ行けずに裏物資を運んで生活しなければならない子供たちへ学問を教える努力、といったものが前面に出てくるわけでも、難民たちの苦難が強調されるわけでもない。
一般的に、映画を見て記憶に残るものとは、画面に映し出される物自体よりも、流れにおいて浮かんでくるストーリーが主になるわけで、この映画を見た人たちは、ずいぶんと辛い思いをされたに違いない。ストーリーが浮かんでくることなく、ひたすら歩く行為を見せ続けられるのだから。
それだけに、こうした映画を作ることは、勇気のいる作業なのだ。映画に付随してくるもので勝負するのはたやすいが、画面に映っているものだけで勝負するのは、生半可な意志では不可能だ。
素の映画、とでもいえるこの『ブラックボード 背負う人』を作ってしまったのは、イランのサミラ・マフマルバフ。父親であるモフセン・マフマルバフよりも遥かに才能豊かなこの女性が、今後いかなる素の映画を生み出していくのか? 期待は高まる。