■ 居心地悪きストレンジャーたち
道端でぶつかったオマー・エプスを、ワインの瓶と人差・中指二本拳の二発でやっつけたビートたけしが、弟の寝ぐら目指して歩く。彼の知らぬこの土地は、アメリカという国のどこか、ということで私たちを納得させることもなく、ビートたけしを拒む姿勢のまま、この映画を見る者に対し、どこまでも同調を許さない。ビートたけしが見せる居心地の悪さは、そのまま私たち見る者が感じる居心地の悪さなのだ。
映画の舞台となる土地を、心地好く、華麗に見せることは、いともたやすい。最近の極端な例を挙げれば、『オータム イン ニューヨーク』で全篇を埋め尽くすニューヨークの風景は、「これぞニューヨーク!」と胸を張って主張されるべき観光映像であり、ニューヨークがいかに素晴らしい土地であるかを、これでもか、と叩きつけるかのように見る者の視覚へと流し込んでくる。
『BROTHER』のロケ地がどこであるかは知らない。しかし、それらの土地が、名称という安心感と共にフィルムへと定着されていない点が重要だ。ここは日本、ここはアメリカ、ここはフランス、ここはパリ、ここはセーヌ河岸…と、観光的な安心感に浸って見ることなど許さない土地。それを、ある人は「どこでもない場所」と呼ぶ。この空間は、映画が映画として成立するかしないかのギリギリの臨界点でこそ浮上する、映画だけが持ち得る奇跡でもある。
そうした土地が、『BROTHER』以上の痛みと居心地の悪さをもって迫ってくる映画がすぐさま脳裡に浮かぶ。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、チェコスロバキアからニューヨークにやってきた人間たちの悪戦苦闘を描いたものだが、そこに映し出される土地は、それこそ『オータム イン ニューヨーク』からは程遠い光景であり、ジョン・ルーリーら登場人物たちは、懸命にその地と同化しようとしつつも、どうしても自分の土地として安住することができない居心地の悪さを四方に発散している。
ニューヨークからクリーブランドへ、クリーブランドからフロリダへと移っていっても、それぞれの地は決してパラダイスへとは開かれず、ジョン・フォードの空も、溝口健二の海も登場しないまま、わずかずつながら交流が進展されつつあった2人の男と1人の女の関係が、あえなく崩壊して映画の終わりを告げるしかない。
■ 映画の誕生へ
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が、ヴィム・ヴェンダースからジム・ジャームッシュに贈られた高感度フィルムによって生み出された経緯を思い起こすまでもなく、いま1本の傑作もまた、土地と人物の相容れない様を描き出したがゆえに、痛みと居心地の悪さをもって私たちを撃つ。
ポルトガルでのロケシーンもそれなりの雰囲気を醸し出してはいたが、何といっても、パトリック・ボーショーがアメリカへ到着してからの不快感こそが一層際立つ『ことの次第』は、映画自体が臨界点にあるだけではなく、物語の上でも、映画が成立するか否かの瀬戸際で登場人物が右往左往する、極めて異例の状況にある映画だ。
当然ながら、アメリカの地とはいっても、それがどこであるかは、容易に判別しがたく、それどころか、映画の終盤は、トレーラーに乗ったまま、監督と、資金調達に失敗した製作者が、けだるい「夜のドライブ」を延々と続けるばかりなのだ。
映画はそれでも追撃をやめない。トレーラーを降りた製作者は即座に射殺され、監督もまた銃弾に倒れる。こんな結末がありか? そう思わせた瞬間、映画は幸福の時へと急転する。画面に映し出される光景は、監督の構えたカメラからの映像へと換わり、監督が地に伏していく過程に合わせて画面も傾き、地に倒れ込んでいく。
登場人物は殺されても、映画がここで誕生する。映画作りの映画が数多く作られてきた中で、『ことの次第』が決定的にそれらと違っているのは、この瞬間を有しているからだ。そこには、これもやはり映画の誕生につながる、映画作りの映画『映画に愛をこめて アメリカの夜』に等しい幸福感が満ちている。
異国における居心地の悪さ、そして主人公の死。『ことの次第』の要素や構造に多くの共通点が見られる『BROTHER』に、映画の誕生する瞬間は到来するのか? その答えは、居心地の悪さから次第に解放されていくビートたけしの表情と行動を見ていれば、自ずと明確になることだろう。