■かわいそうな少女 まったく、また演技派ぶりやがって、今度はこんな役でアカデミー賞でも狙う気か、と嫌悪感しか抱くことのなかった予告篇の印象とはまったく異なり、『アイ・アム・サム』本篇におけるショーン・ペンの姿、仕草、表情はどうだ? ショーン・ペンを見ているだけで、もう涙が出てきてしまうのだから、これはたいへんな成果ではないか。 映画史の系譜には、「かわいそうな少女」という絶対的な要素が存在し続けている。 「かわいそうな少女」が出てくるだけで、映画はたちまち活性化し、中途半端な脚本など、まったく気にならなくなるほど、輝きを増してしまうのだ。 スクリーンでしか映画を見ないという、己の主義に反し、映画を動画配信するサイトを見た。そこで初めて存在を知った、D・W・グリフィスの『あるユダヤ女のロマンス』は、まさに「かわいそうな少女」を描く、その後の『散りゆく花』などへと連なる映画の王道ともいうべき傑作で、グリフィスの偉大さを改めて噛みしめさせられたものだった。 ■かわいそうな大人 本来なら、「スローな」父親を持ってしまった少女ダコタ・ファニングの悲劇性こそが、『アイ・アム・サム』の中心に据えられるところだ。ダコタ・ファニングが「かわいそうな少女」となることによって、映画の王道を踏襲する。映画とは、それで成立するものだ。 しかし、ダコタ・ファニングが「かわいそうな少女」として描かれることはない。むしろ、『ミツバチのささやき』におけるアナやイザベルのように、確立された一個の人間として存在している。父親と比較して知能指数が高いという説話上の設定を超えた、一人の大人なのだ。 では、『アイ・アム・サム』における「かわいそうな少女」とは誰か? 言うまでもなく、それがショーン・ペンなのである。もっとも、この映画では「かわいそうな少女」ではなく、「かわいそうな大人」なのだが。 冒頭にも述べたように、その姿、仕草、表情が、直接的に見る者を刺激する。知的障害などといった言葉や、社会における不当な扱いなどを考慮する以前に、ショーン・ペンは、ひたすらかわいそうであり続ける。 ショーン・ペンがかわいそうなのは、彼が扮するサムに知的障害があるからでもなく、最愛の娘から法的に隔離されてしまうからでもなく、純粋にかわいそうなのだ。言葉が適当である自信はないが、純粋な悲劇性ともいうべきものを獲得してしまったがゆえに、ショーン・ペンは偉大なる俳優として、『アイ・アム・サム』を成立せしめている。 純粋な悲劇性を獲得できた俳優は少ない。グリフィスの時代には、もちろんリリアン・ギッシュがいた。日本にだって、二木てるみがいた。世界で最もかわいそうなのは、この娘なのだ! と誰もが思わざるを得ないような悲劇性を、何の理由もなく周囲に発散してやまない彼女たちがいたからこそ、「かわいそうな少女」という映画史の系譜が成立したと見なすこともできよう。 ■純粋な悲劇性が歪んだ新しさを駆逐する かわいそうであることに理由はいらない。ひたすらかわいそうでありさえすれば、人は涙するものなのだ。『アイ・アム・サム』で、「かわいそうな少女」ではなく、「かわいそうな大人」に視点を移した点は、ある意味で新しい。しかし、それは現代映画が持たざるをえない、歪んだ新しさでもある。 製作者側や、演出家や脚本家に、そうした歪んだ新しさに対する欲が少なからずあったはずだ。ミシェル・ファイファーの醜い姿を、あたかもそこに興行的な勝ちでもあるかのように、醜さを自覚させることもなく、スクリーンにさらしていることを見れば、もはや事態は明白だろう。 しかし、作り手たちの低俗な欲望とは別のところで、ショーン・ペンが体現してしまったかわいそうさがある限り、映画はひとりでに映画史の王道を堂々と歩み始めてしまった。 かわいそうな少女がいれば、映画は成り立つ。それは、かわいそうな大人であっても可能である。『アイ・アム・サム』は、そう教えてくれた。ただし、忘れてはならない点は、それが成立する根底には、ショーン・ペンなる稀有な俳優の存在があった事実である。リリアン・ギッシュ→二木てるみ→ショーン・ペン。なんとも驚くべき系譜ができあがったものだ。