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 41/第四十壱回 ロシアン・ブラザー 

■自然光の快楽
 映画の撮影現場。クレーンを使って、壁に立つ美女を撮影している。それがこの映画の冒頭だ。映画の撮影から始めてしまって、映画史を冒涜する罠に陥りはしないのか、と心配しつつ見続けていると、主人公がその現場にふらふらと入り込んできて、撮影用の照明に照らされることになる。
 このショットが、本作の中でいかに特殊なものであるかは、それからしばらくして判明する。この映画『ロシアン・ブラザー』では、自然光による撮影が貫徹されており、人工的な照明が使われるのは、冒頭における撮影現場のショットだけだからだ。
 薄暗さ、寒さ、そして陰湿といった言葉がふさわしい湿り気。そうした空気が、視覚よりも触覚に訴え、肌を刺激するかのように、見る者を包み込む。スクリーンの平面を見るという意識がいつしか麻痺してくるような感覚に襲われる。

 画面が暗くたっていい、人物の顔に陰がかかっても構わない、絶対に人工の照明は使わない。そうした確固たる態度が、全篇を貫く自然光撮影から発散され、画面作りに対する姿勢の厳しさは、むしろ快い刺激へと変化していく。
 自然光撮影と平行して見逃せないのは、律義にフェイドアウトを駆使している点である。時間の経過を暗示する、といったレベルで意味づけされることの多いフェイドアウトは、今では忘れ去られてしまったかのような、ほとんど使われることのない技法となっているが、それを愚直なまでに繰り返していく。全篇を自然光だけで撮影することと同様、フェイドアウトを続けていくこともまた、作り手の厳しい意思表示に他ならない。

■大胆な省略
 軍役から戻った主人公は、母から絶大な信頼を寄せられている兄を訪ねるために、ペテルブルグへ向かう。母からは信頼されていても、この兄は殺し屋で、マフィアのボスから殺人の依頼を受けている。この交渉シーンが、『ある殺し屋』を大いに喚起させるものであり、以後も『ある殺し屋』的なイメージが連続し、この映画の作り手であるアレクセイ・バラバノフは、絶対に『ある殺し屋』を見ている! と断言したくなってしまう。
 以後、殺人に向けての下準備が丹念に描写されていく。逃走経路を確保するために部屋を借りるところは、『ある殺し屋』とまったく同じだ。また、マッチを削って火薬を集め、簡易爆弾を作ったり、殺しの対象に近づいて、下調べをしたり、と殺人がひとつの手作業として描かれているところなど、これは殺しの準備なのだ、と納得するのではなく、ナイフや指の動きが十分に魅力的なものとなって、物語の展開を超えた別の次元の運動として成立するに至っている。

 だが、この映画がロベール・ブレッソンの『抵抗』や『スリ』のような、手の運動を中心として、小さく細かな作業を綿密に追っていく映画かといえば、そうではない。その方向とは逆方向に、大胆な省略もなされている。主人公が、市場で暗殺を行う、最も重要ともいえる殺しのシーンが、完全に排除されているのだ。
 この大胆さは、山中貞雄をもってしても、驚嘆させるに足るものであろう。殺しの描写に、いちいちスローモーションを使って時間だけを無駄に増長させている凡百のアメリカ映画など、この『ロシアン・エレジー』一作によって粉砕される他はない。
 自然光撮影やフェイドアウトの使用などを始め、己に過酷な制約を課しながら、それらが映画のための魅力的な要素へと変化していく。セルゲイ・ボドロフ・ジュニアという新しい俳優の登場を歓迎しつつ、新しさよりもむしろ伝統を直視する方向から、逆に新しい息吹を感じさせる。インド映画と同様に巨大な環境としてのロシア映画が持つ未知なる領域は、あまりにも広大なのだ。

 

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 42/第四十弐回 こころの湯 -SHOWER-  http://www.ponycanyon.co.jp/pc-movies/2001/roadshow/shower/ 
■映画と水の関わり
 お湯に浸かる。その肉体的、心理的効用は、健康書や健康雑誌だけでなく、新聞やテレビなどの一般マスコミでも既に語り尽くされているであろう。間違ってはならないのは、お湯に浸かることが心や体に効くからといって、それを描いたこの映画が良い映画であることには決してつながらない点である。
 それでもこの映画における、お湯に浸かるシーンの徹底した露出ぶりは、舞台が銭湯なのだから当然とはいえ、ただならぬものを感じさせてやまない。お湯に浸かる行為から、シャワーを浴びる、水を撒く、水を汲む、といったお湯=水を巡っての運動が表情豊かに変奏されており、純粋に湯船に浸かっているシーンは、むしろ目立たないくらいだ。
 映画と水は、『水をかけられた水撒く人』などのリュミエール時代から、つまり映画の始まりから、切り離すことなど困難な深い関係を培ってきた。ただし、映画史を振り返りながら映画と水の関係を考察していく、といった気の遠くなるような作業をここで行うつもりは毛頭ない。しかし、この『こころの湯』と同時期に公開された一本のカナダ映画を見ると、映画が水といかなる関係を結ぶかによって、幸福と不幸へと如実に分離されてしまうことがよくわかる。

恐怖の水
 『渦』というカナダ映画の中で、水は非常に重要な役割を果たしている。血液という液体から水のイメージは開始され、その後、魚と海に姿を変えながらスクリーンを侵食し続ける。ヒロインがシャワーを浴びるシーンもあるが、それは『こころの湯』と異なり、人間に治癒的効果をもたらすことも、爽やかな気分にさせることもなく、一個の無表情な風景として収まっているに過ぎない。
 魚は、いちおう日本のように刺身で食されたりもするが、積極的な嗜好を感じさせるものからは程遠く、魚の棲む海は非常に凶暴な他者として描かれ、海で活躍するダイバーは、強敵と戦う戦士のようだ。ダイバーの父は、遺灰を海に撒いてほしいと願っていたが、息子はそれになかなか賛同できず、ラストではようやく希望通り海に撒かれるものの、その海にはもちろん解放感などはなく、人間に陰惨さを強いる圧迫感として横たわるばかりである。
 『渦』において、水は敵なのだ。それは、近年でいえば、『インデペンデンス・デイ』で地球征服にやってくるエイリアンや、『アルマゲドン』で地球に飛来してくる巨大隕石などと本質的に変わるものではない。この二作品において、人類は勝利するが、『渦』において、人は勝利することなく、救われないまま立ち尽くすだけだ。

■幸福の水
 水と敵とするか、味方とするか。その無意識による選択が、映画の容貌をまったく別のものにする。『こころの湯』は、親子の行き違い、地域開発、老人相手とは少し違った形での介護など、現代社会のはらむ最先端の問題を取り上げている。しかし、それらは深刻な懸案事項として突きつけられることはなく、例えば『渦』におけるシャワーシーンのように、風景としての要素と見なしてもよいくらいだ。
 現代社会の諸問題という文脈を大きく逸脱する形で、水は自由な運動を続け、見る者を魅了してやまない。その最たるものが、水の少ない土地で、嫁ぐ娘を挙式の前夜に入浴させるシーンといえよう。水と人との戯れが、むしろ運動のほとんどない状態で描かれながらも、娘の頬を伝う涙が、明日から嫁いでいくのだ、親たちが水を集めてくれてきて本当にありがたい、といった感情を表現する意味合いなどを遥かに超え、水と人との関係がここに極限まで高められた瞬間として、説明不能の感情を掻き立てる。

 そのシーンに限らず、徳利を乗せたお盆が、お湯に浮かびながら登場人物の間を往き来するなど、水との戯れは、人間をも超えて、お盆や徳利などの物体にも波及されながら、この上ない豊かな貌を現出させる。これはもう、映画の画面にある、見る対象としての水を超え、包み込まれることで最大の快楽とする対象としての水へと化している。
 老父の死、再開発による銭湯の取り壊し、村人の離散、障害児の介護……。この映画のラストは、問題山積で、むしろ残酷な結末である。にもかかわらず、幸福な思いで満たされたまま映画を見終えることができるのは、繰り返し述べてきたように、水と映画、そして人間が、幸福な関係を結び得たからに他ならない。


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