■自然光の快楽 映画の撮影現場。クレーンを使って、壁に立つ美女を撮影している。それがこの映画の冒頭だ。映画の撮影から始めてしまって、映画史を冒涜する罠に陥りはしないのか、と心配しつつ見続けていると、主人公がその現場にふらふらと入り込んできて、撮影用の照明に照らされることになる。 このショットが、本作の中でいかに特殊なものであるかは、それからしばらくして判明する。この映画『ロシアン・ブラザー』では、自然光による撮影が貫徹されており、人工的な照明が使われるのは、冒頭における撮影現場のショットだけだからだ。 薄暗さ、寒さ、そして陰湿といった言葉がふさわしい湿り気。そうした空気が、視覚よりも触覚に訴え、肌を刺激するかのように、見る者を包み込む。スクリーンの平面を見るという意識がいつしか麻痺してくるような感覚に襲われる。 画面が暗くたっていい、人物の顔に陰がかかっても構わない、絶対に人工の照明は使わない。そうした確固たる態度が、全篇を貫く自然光撮影から発散され、画面作りに対する姿勢の厳しさは、むしろ快い刺激へと変化していく。 自然光撮影と平行して見逃せないのは、律義にフェイドアウトを駆使している点である。時間の経過を暗示する、といったレベルで意味づけされることの多いフェイドアウトは、今では忘れ去られてしまったかのような、ほとんど使われることのない技法となっているが、それを愚直なまでに繰り返していく。全篇を自然光だけで撮影することと同様、フェイドアウトを続けていくこともまた、作り手の厳しい意思表示に他ならない。 ■大胆な省略 軍役から戻った主人公は、母から絶大な信頼を寄せられている兄を訪ねるために、ペテルブルグへ向かう。母からは信頼されていても、この兄は殺し屋で、マフィアのボスから殺人の依頼を受けている。この交渉シーンが、『ある殺し屋』を大いに喚起させるものであり、以後も『ある殺し屋』的なイメージが連続し、この映画の作り手であるアレクセイ・バラバノフは、絶対に『ある殺し屋』を見ている! と断言したくなってしまう。 以後、殺人に向けての下準備が丹念に描写されていく。逃走経路を確保するために部屋を借りるところは、『ある殺し屋』とまったく同じだ。また、マッチを削って火薬を集め、簡易爆弾を作ったり、殺しの対象に近づいて、下調べをしたり、と殺人がひとつの手作業として描かれているところなど、これは殺しの準備なのだ、と納得するのではなく、ナイフや指の動きが十分に魅力的なものとなって、物語の展開を超えた別の次元の運動として成立するに至っている。 だが、この映画がロベール・ブレッソンの『抵抗』や『スリ』のような、手の運動を中心として、小さく細かな作業を綿密に追っていく映画かといえば、そうではない。その方向とは逆方向に、大胆な省略もなされている。主人公が、市場で暗殺を行う、最も重要ともいえる殺しのシーンが、完全に排除されているのだ。 この大胆さは、山中貞雄をもってしても、驚嘆させるに足るものであろう。殺しの描写に、いちいちスローモーションを使って時間だけを無駄に増長させている凡百のアメリカ映画など、この『ロシアン・エレジー』一作によって粉砕される他はない。 自然光撮影やフェイドアウトの使用などを始め、己に過酷な制約を課しながら、それらが映画のための魅力的な要素へと変化していく。セルゲイ・ボドロフ・ジュニアという新しい俳優の登場を歓迎しつつ、新しさよりもむしろ伝統を直視する方向から、逆に新しい息吹を感じさせる。インド映画と同様に巨大な環境としてのロシア映画が持つ未知なる領域は、あまりにも広大なのだ。