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 43/第四十参回 大魔神 

■嗚呼、橋本力
 「映画秘宝 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」は、ブルース・リーブームなどという一時的な現象を超えて、ブルース・リーという存在の絶対性を確立した歴史的な書の一つである。
 この書の中でも屈指の一篇が、河崎実氏による橋本力氏のインタビュー「ブルース・リーに蹴られた男」であることに異論を唱える人はいないだろう。
 そのリード文「座頭市、眠狂四郎、ガメラ、油すましと戦い、ブルース・リーとジャッキー・チェンに挟まれた大魔神!」は、名文中の名文であり、インタビューの末尾は「――ブルース・リーと戦った男が大魔神であるという事実は世界の映画史に燦然と輝く神話であり、我々が日本に生まれて良かった数少ない誇りだ! ありがとう、橋本力さん!!」と、胸のすく言葉で締められている。
 橋本氏のインタビューを繰り返し読むたびに、当然のことながら、『ドラゴン怒りの鉄拳』はもちろん、『大魔神』『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』『妖怪大戦争』などを見たくなってしまうのだが、ちょうど良いタイミングで、『大魔神』がフィルムセンターで上映された。

 橋本氏は、「大魔神は神様なんでとにかくまばたきしないでくれ」と指示されていたことを語っているが、『大魔神』を見るのが5回目となる今回初めて、魔神がまばたきをするショットを発見した。
 悪者を全員退治した魔神が、その暴走をやめず、今度は村人たちを手にかけ始めたところに、高田美和の小笹が駆け寄って懇願し、魔神の足に涙を落とす。これを見た魔神は、ここでのみまばたきをするのである。
 「まばたきするな」と言われていたのだから、まばたきしてしまうことは、本来なら演出ミス、あるいは演技ミスである。しかし、魔神がふと人の心に触れた、というか魔神の心が動かされたことを伝えるには、このまばたきが絶好の表現となったことは否定できまい。
 ボツとなるはずのショットを拾い、それを感情表現の一種として生き返らせる。そんなところに、映画が裸になってその真実をさらけ出した瞬間を見せられる喜びを感じずにはいられない。


■水の物語
 『大魔神』では、高田美和の落とす涙が重要な要素となったわけだが、2作目の『大魔神怒る』では、湖が舞台となって、涙という水(=液体)が極端に拡大される。さらには、二代目ヒロインとなる藤村志保が、高田美和のまったく及ばぬ、美しくも情感にあふれる涙を見せて、大魔神と水の密接なるつながりを完璧なまでに強固なものとして確立させた。
 そして、第3作にしてシリーズの最終作『大魔神逆襲』では、水は雪に形を変えて画面を覆い尽くし、もはや液体の状態をなし得ぬ方向へと進みながら、大魔神全体の終焉を迎えることになる。
 大魔神そのものは、石という物質のイメージが強いが、実は水が常に魔神を包み、支え、『大魔神』シリーズの大きな支柱となっていた(『大魔神』で魔神が奉られているのは滝の上である)ことを、橋本力氏のまばたきを見るとともに、深い感銘をもって思い知らされた。

 

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 44/第四十四回 リメンバー・ミー 
■ヒロインの顔はここまで変わる
 『オーロラの彼方へ』と同じじゃないか、と見なしてしまう。これは非常に危険な落とし穴だ。もちろん、そう思う気持ちはわからないでもない。しかし、『リメンバー・ミー』と似通った導入要素を持つ『オーロラの彼方へ』が、時間の差異を利用した物語を、映画の現実と触れ合うことなく安易に語っただけに終わっているのに対し、『リメンバー・ミー』は、ひたすら映画の生と向き合うことで、物語を超越した、より厳しい映画の貌を際立たせる結果を導きだした点で、決定的に異なる映画なのである。
 誰もが疑問をおぼえるであろう、ヒロインを演じるキム・ハヌルの人畜無害な笑顔と仕草。いくら1979年の女子大生だからといって、それはないんじゃないか、と文句のひとつも言いたくなるくらい、居心地の悪いその表情、態度。これは絶対、無理に大げさな演技をしているのだろう。次第にそうも思えてくる。何か事件でも起きて、この能天気な顔が、すごく怖い顔になったりして…。
 映画における登場人物の変化とは、映画を見る最大の悦びに他ならず、『リメンバー・ミー』は、その期待を裏切ることなく、十二分に応えてくれる。無線を通じて未来の事実を知らされたキム・ハヌルは、もはや笑顔を見せることはない。微笑はあっても、それは諦念に立脚したもので、映画の前半に見られた笑顔とは、心理的・説話的な意味の違いを超えて、別種の何かを感じさせる、冷たい迫力をたたえている。

■映画の骨格
 顔の変化によって、映画は一気に過酷な領域へと踏み込んでいく。人と人とが見つめ合う行為が、若い男女のほのかな恋といった物語へと収束することを激しく拒絶し、正面からのアップとアップの切り返しという、映画の原初的な手法を繰り返しながら、いわば純映画へと回帰していくのである。それは、時代の交錯や、恋愛といった外的な要素でごまかすことのできない、裸の映画と対峙することにつながっていく。
 当然のことながら、映画のクライマックスは、キム・ハヌルと現代の青年ユ・ジテの対面となるのだが、彼らは言葉を交わすこともなく、やはり正面からのアップとアップが切り返されるだけで、「感動の対面」などといった文脈になど、とても収まりきれない、純粋であるがゆえの厳しさを四散させている。

 キム・ハヌルが、ここで見せる動作が決定的だ。映画全体を通して、彼女が反復し続けてきた、うつむく動作を繰り返している。視線と視線の交錯を断ち切り、地に視線を落としながら前進するこの行為が、裸の映画というよりは、むしろ映画の骨格をなす重要な構成要素として改めて輝きを放ち、『リメンバー・ミー』という映画が最高に高揚する瞬間から、終息へと至るための契機としても機能する。
 優れた映画は、人の顔を見ているだけで楽しめるものだが、『リメンバー・ミー』は、キム・ハヌルやユ・ジテたちの顔を、ひたすら見ていたい、と映画が終わった後にも感じさせてやまない。それは、繰り返し述べるが、骨格の領域で映画と向き合う厳しさこそが可能にする余韻なのである。

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