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山田英司プロフィール
「格闘ストリーミングマガジンBUDO-RA」編集長。「格闘伝説BUDO-RA」編集長。
早大「中国拳法同好会」初代主将。高校時代より中国拳法を学び、台湾、中国などの師につき、八極拳、螳螂拳、太極拳(陳式、楊式)、翻子拳、通劈拳、少林拳、形意拳、劈掛掌、各種武器などを学ぶ。自ら新空手やムエタイに挑み、戦う編集長として知られる。実戦だけでなく、その格闘理論には定評があり、初めて中国拳法の上達理論を確立する。
2000年10月号
山田英司編集長
編集後記
夏のコワーイお話です。ある日、朝起きてみると、突然顔の右半分が動かない。知人に電話で話すと、「そりゃオブチさんと一緒だ! 即救急車を呼べ」と言うさわぎになり、私は原宿の人ゴミからタンカで運ばれ一路救急病院へ。病院で詳しい検査をすると、脳梗塞の疑いはなく、結果は単なる顔面神経麻痺。冷たいクーラーにずっとあたったりしてると突然なるらしい。
しかし、缶コーラは口からこぼすし、よくしゃべれないし、不便この上ない。R師範からは「どうしたのケンカで敗けたの…」と聞かれG最高顧問からは「タタリだタタリだ」とからかわれる。何となく人前に出るのもはずかしく、障害者や老人の問題もいきなり身近に感じてしまった。でも、リハビリ担当の先生が、びっくりするほどの美人。そのため、病院に通う自分が、ちょっと得したと思うオレってやっぱり変ですか?
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2000年11月号
山田英司編集長
編集後記
先月号のザ・カカトの撮影が、アンディの本当の遺影となってしまった。おそらく空手着を着て動くアンディの絵は、我々の撮影が最後であっただろう。先月号発売の翌日にアンディが息を引きとったのは不思議な縁だ。編集会議でなぜか突然私が「今月号はアンディで行こう!」とさけび、表紙の決定の際にも、周囲の反対を押しきって、アンディ単独の表紙にした。
外人選手の中で、アンディほど取材しやすい選手はなく、そのせいか技術編の登場回数は一番多かったのではないか。頼めば、いつでも快く、また真剣にやってくれた。試合の前日にアンディの技術撮影をし、アンディが気合いが入り、汗びっしょりで動いている所を石井館長に見つかり、大目玉を喰ったこともあった。
茶目っ気のあるアンディは、我々が試合に出ていることを知っているのか、かなり重いローキックやパンチを私の身体にたたき込んだりしていたものだ。あの固い拳と重たいローの威力はいまだに忘れられない。そして、別れぎわの手が痛くなるような握手。今月号は、アンディと最後の握手をするつもりで作りました。
>>アンディ追悼・特別ページ
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2000年12月号
山田英司編集長
編集後記
今月の廣重師範の空手理論と技術の特集は、いかがでしたか? 名選手や名コーチの取材をずいぶんしてきましたが、そのたびに思うことは、技術そのものよりも、技術を作るための発想法の豊かさです。格闘技に限らず、あらゆるスポーツの技術は、人間が行うもの。そして人間が考え、人が作ったものです。
本誌はやる側のための雑誌であっても、技術だけの雑誌ではないと自負するのはその意味からです。どんな人間が、どんな発想でこの技術を思いつき、選手がどんな気持ちで技術を用いるのか? 本当に興味があるのはこの点であり、読者が本当に学ぶことが可能なのはここだと思います。
ですから、廣重師範の半生や、空手に対する考え方なくして、城南の強さの秘密を理解することはできないでしょう。「空手を教えることは人を育てること」と語る廣重師範の言葉は、その意味でも味わい深く、まさに空手に真剣に生きる名伯楽ならではの言葉です。
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山田英司編集長
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