■正道カラテ 進化の道のり
大会で振り返る正道会館の歴史
写真提供=須佐写真事務所
構成=本誌編集部
黎明期の衝撃
極真会館芦原道場大阪支部から独立し、正道会館(当時は正道館)を設立した石井和義館長(現在は宗主。本稿内では、館長に統一)は、西日本大会を開催して超満員の観客を集める成功を収め、1982年には、時期尚早という周囲の声に反して、初の全日本大会を、大阪府立体育会館という大会場にて開催した。
この大会は、極真会館の大会をベースにしたものであり、一部からは極真の模倣、ともいわれたが、腰上8本以上の蹴りを義務づけ、つかみからの攻撃を認めるなど、ルールは、あくまで石井館長の目指す空手に近づけようとするものであった。
正道会館の全日本大会は、正道会館内の選手の意欲向上や技術向上といった効果だけにとどまらず、東西の空手団体の注目を集めた。
当時、直接打撃制ルールの空手大会といえば、極真の全日本しかなかったわけだが、極真会館はその頃、他流派に対し門戸を閉ざしており、極真以外の団体は出場する大会がなかった。
そこへ、正道会館が極真ルールに近い大会を開いたわでけなので、他流派も黙ってはいない。第2回大会には、それまで極真の大会に出場していた青柳政司氏や、田中正文氏の弟子である藤田耕太郎氏など、他流派がこぞって出場し、真のオープントーナメントたるにふさわしい大会となった。
しかし、技の効かせ方、戦法、倒し方など、最先端を行く研究と成果を発揮していた正道会館の選手と、まだ研究の追い付いていなかった他流派勢とでは、第3回以降、差が開いていくばかりとなり、正道会館は、独走態勢を保つことになった。
第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会
正道会館設立の翌年に開催した第1回大会は、石井館長の秘蔵っ子である中山猛夫氏(左)が、圧倒的な強さを見せつけて優勝した。
第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会
中山猛夫氏が連覇を遂げた大会だが、他流派からも強豪が大挙して出場。3位に杉原正康氏(白蓮会館館長)が入賞したのをトップに、5位に西村和之氏(佐藤塾)、6位に藤田耕太郎氏(日本拳武道会館)、8位に青柳政司氏(誠心会館)が入賞し、オープントーナメントならではの盛り上がりを見せた。
佐竹雅昭の驀進
第3回大会に初出場した佐竹雅昭氏は、出場前から、その恵まれた体格とパワーで、次代を担うべき新星として期待されていた。
初出場の第3回大会では4位にとどまったが、その後、2年連続で準優勝を遂げた後、第6回大会で念願の初優勝を遂げた。以後、佐竹氏は正道会館、さらには日本空手界を牽引するトップ選手として驀進することになる。
しかし、佐竹氏が盤石の強さを発揮し続ける中、第7回決勝を争った柳澤聡行氏、第8回決勝で決勝を争った田上敬久氏と、若手選手が次々に台頭し、正道カラテの進化はとどまることを知らなかった。
第6回大会で初優勝を果たした佐竹雅昭氏(右)。正道会館3連覇から、K-1の道へ。佐竹氏の「超人追求」ロードは、空手界に一つの時代を築き上げた。
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