格闘伝説BUDO-RA 第13号 


 
BUDO-RA 第12号
 
第13号 2004年 1月23日発売

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武蔵流 鉄壁の防御
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PRIDESPECIAL 2003 男祭り

富樫宜資 受けの完成を目指して

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ワールド大山空手全日本王者は意識の空手を目指す

護身の現実に最も近づいた大会 全国護身術制圧術オープントーナメント
R.I.S.E.トーナメント
全日本キックボクシング

BUDO-RA 格闘RA

表紙写真 武蔵

 
TRY 
富樫宜資 最高の受けを目指して

富樫宜資 日本空手道無門会宗主会長
 富樫宜資宗主会長の完成させた最高の境地「受即攻」。その境地に至るには、極限の攻撃という土台に立つ、極限の受け・受即攻の完成が必要とされた。
 最高の受け・受即攻を完成させるために、富樫宗主会長が歩んだ凄絶な修行の日々と、そこから築き上げられた極限の受即攻の理論を語っていただく。

空手の極限の受即攻とは何か?

 受け・受即攻技に対する私の基本的な最初の認識は、第5回大会決勝戦の盧山初雄対山崎照朝戦にありました。盧山さんが優勝した第5回大会の頃、私はまだ、空手に対する全体的な理想の空手のイメージというものができていなかったのです。
 例えば、剣道にしても右で受けて左で返すといった明確な受けと返しの形がありません。受即攻・カウンターこそが最高だという明確な形がない。だからこそ古の剣豪の山岡鉄舟や宮本武蔵を研究したのです。極真空手にしても、キックボクシングにしても、止め受けはありました。受けというより、止めるだけです。しかし、そのレベルの低い受け技術だけでは若くて大きく攻撃力がある選手が有利なだけです。
 確かに空手の修行は、攻撃技から入ります。最初は破壊力を求め、一撃で倒すことを目標とする。そこには初期的な手足を武器にした空手のおもしろさがあります。 しかし、プロとして追求すべき理想の形が見えてこない。極真の大会でも、当時は明確なスタイルがありませんでした。極真の試合を煮詰めていって、最高の境地に辿りつけるのか?疑問はあっても20歳前後は難しい理屈は分からない。特攻隊精神です。それでは、理屈より実行ということでまずは大会に出てみようと極真の試合へ飛び込んでいきました。そのためには生半可な努力では通用しません。徹底的に空手の基礎を鍛え、自分を追い詰めるために、3年計画の元にまずは山へ行って土台作りを行いました。極真の試合で修行の成果を試すのですが、やはり木を相手の稽古だけではダメなんです。私にとっては土台作りの1年であっても全国大会は勝ち負けの勝負ですから。破壊力では太さが30センチの木を蹴っても倒れません。太さ10センチくらいなら、毎日何千回も蹴った末に、根から倒れていきましたが…。
 それだけでは極限のスピードがつかないんです。攻撃にキレがない不満が残りました。大会では10あるところ、6・5から7くらいのスピードしか出せなかったのです。
 山に入って最初の頃は、体が死ぬほど痛くて、夜の稽古はできませんでした。しかし、体が慣れてくるようになり、下部構造を作るために朝から行う6〜7時間の土台創り稽古(山頂へのマラソン、ジャンプ、腕立て、バーベル訓練等々)に加え、午後は立ち木相手にさらに6〜7時間も稽古。夜は段階的にスピードをつける訓練を行うようになりました。
 空突き、空蹴りを行ってから、受けから反撃の初歩的な稽古を行い、こう来たら、こうする、といったイメージトレーニングなども行いました。
 第5回大会では、下部構造の鍛練が実ったか、大会最高板数も割れ、極真の指導員にKOで勝つこともできたのですが、キレや大会以前の組手数に違いがありました。
 盧山選手と山崎選手の決勝戦で、何が自分とちがうのか? そう思いながら見ていて気づいたことは、受けと返しがある、ということでした。
 私の空手は、一方的に相手をつぶしていく、丸太ン棒を振り回すようなものでした。
しかし、盧山選手や山崎選手は、刀で斬る、という感じがありました。攻撃を受けて崩し、返しの回し蹴りで倒す。盧山選手は、受けて正拳で返しますから、これは私でも訓練さえすれば1〜2カ月で習得できる、と思いました。
 第5回大会を終えたところで、私は極真の指導員や他の黒帯に勝っても誇りに思えない状態でした。技ではなく力一辺倒だったこともありますが、極真は顔面突きも金的蹴りもなかったため、それらがなければ本物の空手は成立しない、という考えが私の中にあったからでしょう。


受け・受即攻の徹底訓練へ

 本当の空手を築き上げたい。そう考えた私は、日本に極真以外に本物の空手があるのではないかと思い長野、大阪、兵庫、さらには九州各地を回ってから、沖縄へ向かいました。沖縄には、まだ本物の空手があるのではないか、と思えたからです。
 しかし、沖縄で会った先生方は、例えば、防具を付けて横蹴り主体の空手であったり、型をたくさん身につけ、型の保存を重視する方であったりしました。
 横蹴り中心の変形した空手や型だけでは、これ以上沖縄にいる必要はない、ということで帰りました。つまり世界には理想の空手はない、自分独りでやるしかない…と。
 大山総裁は、劇画を通じて英雄的なスタイルの虚構の世界のを築いていましたが、実際にお会いしてみて、総裁が私が期待するような空手の名人・達人の境地をつかんでいるのか、非常に疑問に思えました。1974年赤坂直彦氏の協力の元に日本獣医畜産大学でウエイト室を借りて、新たな理想の空手を求め武道空手道研究団体として無門会空手という団体を創りました。最初は蹴りを受ける訓練から始めました。当然金的攻撃有りで、最初は山崎照朝選手の受けの形を研究しながら始めました。
 毎日十数人の元気な若者達に数往復1〜2分蹴りを自由に攻撃させ、受ける訓練をしたのですが、防具無しだから素足で受けると相当痛い。山であれだけ鍛えていても、スネとスネがガチンと当たり毎日50人、100人組手と相手をすると足が相当ダメ
ージを負うんですね。どうしたら痛くない受けができるのか? 必死に研究しました。
 試行錯誤を繰り返していくうち、次第にわかってきました。威力が出る前に受ければいいのです。膝が上がり、第2ロケットが発射される前に止めてしまう。また、密着してしまえば、相手は大きな動きができなくなります。
 そうすると、相手は威力を溜めるために後ろに下がるわけです。そこを絶妙のタイミングで追い詰めていきます。タイミングがつかめるようになってくると、攻撃の瞬間に蹴り足を押さえることができるようになりました。
 膝や下肢をクッションにして相手の蹴りの威力を逃がす、先に受ける、相手の動く瞬間に受ける、などのポイントがつかめてきました。左足を空中に浮かし、右足一本で立ち、相手のすべての攻撃をいかようにも受けることができるようにもなりました。
 私は、一回でも負ければ先生の立場の返上ですから、必死です。相手の若者達も毎日死にもの狂いで攻撃してきましたね。最初の2ヶ月は足はボロボロになりましたよ。
そうした激しいぶつかり合いが続いたからこそ、受けのポイントが見えてきたのでしょう。積極的な受けができるようになってくると、相手は逃げるようになります。そうすると、受ける前の心がわかってきたのです。そして、相手が攻撃できない形がわかり、受けとはこんなに強いものなのだ、ということもわかってきました。
 これは誰にも教わらない己で死にもの狂いでつかんだ最初の最高の歴史的な真理でしたね。極意への道の第一歩でした。しかしこれがどんな苦しいものか受けの20人〜30人組手をやればすぐに分かります。10〜20人組手だけで2度と立ち上がれないほどの半殺しの目に合うでしょう。

前屈立ちと受即攻

 受けが完璧になってくると、返しを入れるようにしていきました。足を払ったり、上段を蹴ったり、中段を軽く蹴ったり…。こうしていくと、相手が強くなってくるの
がわかり、平行して自分の受けの相当強さも向上していくことが感じられました。
 自由組手に近い動きの中で、攻撃を全部止めることができるようになり、次はわざと隙を作って相手に攻撃を出させ、それをつぶしていくようになりました。
 下段回し蹴りなら、蹴ってくる足の甲を膝で受けてダメージを与え、上段回し蹴りなら、肘でつぶす、という感じで、受けのおもしろさと恐ろしさがわかってきました。
 受けの訓練は、猫足立ちで実践して、高度な円の崩しでユッタリズムの世界を築いていましたが、山崎選手のように受けて蹴りで返すとなると、タイミングが遅れることに気づきました。そこで、後屈立ちの受け返しを独りで半年くらい研究したのですが、受けて突きで返すというのが二拍子で返しがトロくてどうもしっくりこない。
 それでは、前屈立ちならどうか? 1974年〜1975年に、武道館で行われた寸止め系の全国大会や日本拳法、少林寺拳法、極真等全部撮影しました。特に前屈立ちの「寸止め空手」のトップクラスの戦いは全部1コマ1コマ全動作を研究しました。
試合をしている選手たちは、両手をぶらりと下げたり、相手の攻撃を見切ったり、手でよけたりはするのですが、突きを受けれる受即攻は一度もありませんでしたね。
 1970年代初期、当時の空手協会最高師範の中山正敏氏の「ベスト空手」、南郷継正氏の「武道の理論…」といった本も相当研究し、大会も観戦しましたが、いずれも現実的には受即攻は試合で使用できていない。まだ、受けというものを理論的にも実践的にも身をもってつかんでいなかったのですね。私は、1974年〜1975年で命懸けの受けの百人組手訓練で猫足で完璧な受けができていましたから、これで前屈立ちの受即攻技を極めれば、空手界最高の形ができる! あらゆる過去の武道、人類の格闘の歴史を抜いて、最高の境地に至ることができると確信しました。

1976年の極意獲得の1年の死に物狂いの山修行

 そう確信すると、すさまじい意気込みで完成する理論と実践の研究に取り組み始めました。実践することはもちろん、理論でも完璧なものを築き、社会にも役立たせたいという理想も追っていました。頂点へ至る最大の技とは何か? 磨きに磨かれた攻防の中で出る、極限の動きの極め技を徹底して訓練するだけです。1975年に完成す
るための理論を確立し、その実践のために翌年の1976年に1年の山籠りを決心しました。そこでは最高の極意に至らない無駄な無意味な技は極力排除しました。
 私がかつて得意とした飛び蹴りや、猫足からの金的蹴りも捨て、前屈立ち系の回し蹴りは上足底を使うものに直し、前屈立ちの初期訓練を徹底させました。気が付いたんですが、人間の性質に、高度な極限の受け・受即攻という要素はないんですね。受けを反復していると、イヤになってきます。心と技が結びついていないため、受けを何千本、何万本、何時間もぶっ続ける訓練をすると心が逃げていくのです。技と心がつながらないんですね。歴史的な非常に重要な訓練であるのに、心は「いやだ」なんですね。
 それで何でこんな精神状態になるのか興味をもちその心理状態をノートにつけるようにしていったら、面白いことに富樫宜資を通り越して普遍的な人間の心理状況がわかってきました。禅などでいう「とらわれ」「執着心」「有心」が分かったんです。同じことが、波のように繰り返し寄せてくるのです。ノートに書きながら、もういい、という気持ちになってきました。同じことなのですから、考えないようにすればすんでしまうのです。輪廻の如く襲う「とらわれ」はそこで解決しました。
 殺しの極限の攻撃技、複雑な受け技、受即攻技、カウンター技を機械的に繰り返していったら、心がわかった、というのは皮肉な話です。駒のように激しく回転しながら外見は動いていないように見える。それが悟りに至る重要な方法だったのです。
 受けの訓練を毎日毎日実践して行くうちに、数カ月してくると敵の攻撃の動きが次第に目前に明確に浮かんできました。徹底的に訓練した技と心が一体化したんですね。
さらに訓練すると不思議な事に脳裏に浮かぶ目前の攻撃・受即攻の相手の動きがスローモーションのように観えてきました。線の動きが止まった点に観えてきたんですね。
 極限の攻撃へ受即攻、極限の受即攻へ攻撃、という相対する両者の訓練が次第に対立物が相互浸透してきて、両者がすべて観えてきたんですね。まさに唯物弁証法の高度な理論の実践化です。その瞬間でなければ決まらない、というポイントがわかり始めたのが11月頃です。完璧にわかったのが12月に入ってからですね。もうこれ以上は山で修行する必要はないということになり1976年12月24日を記念日に山を下りることにしました。

受即攻の完成から弟子の育成へ

 1977年春から、私の稽古相手を育成するためと弟子を強くするため弟子の育成に努めるようになりました。指導の難しさを痛感しながらも、3年間、非常に丁寧に教えました。受即攻の右手の位置が、脇腹中段にあるのは角度的に一撃必殺性が無いことがわかり、78年〜79年に順突きを一撃で受即攻するため右手を顔横に挙げました。
 77年から新たな弟子たちの戦いが始まり、滝澤賢治が攻撃を主体にして秋に優勝しましたが、78年は受即攻タイプの選手が優勝しました。単純な攻撃だけでは勝てなくなってきたのです。私が命懸けで受即攻を訓練していたことが、弟子にも伝わったのでしょう。
 1978年は私が約束自由組手〜自由約束組手を完璧にした年です。79年からは、相手に鉄面を着けさせ、私の顔面を思い切り攻撃させ、私が思う存分受けて返す形式を取ってから受即攻を完成することができました。最初は私も面を付けていたのですが完璧に受即攻できることが分かり数週間で面をぬいで素手の相手と対戦しました。
 しかし、受即攻の威力を試すと、威力が有り過ぎ相手は吹き飛び、さらに相手の脳にダメージがきてしまいます。鉄面の上から打っても、金属バットでまともに顔面を殴るのと同じで、一発で弟子たちは吹き飛び大の字にのびてしまいました。
 あるときから、倒された弟子の顔がどす黒い紫色に変色して、これは死ぬ、と思ったくらいです。私は最初は受即攻の破壊力がどれくらいあるか極限まで試したかったのです。しかしあまりの受即攻の破壊力のすさまじさに弟子たちは、次第に恐怖のどん底となり、ほとんど逃げていってしまいました。1979年の6月頃に私としては、もうこれ以上やる必要はない、ということがわかり理想の空手追求はここで終了しました。
 受即攻を完成させ、いつでも相手を殺せる技が身についた。しかし、これからどうしよう?プロになってショー的なものを目指すのか? また、人殺しをするまでもなかろうと。そして、この至上の完成する空手を広めよう、ということに落ち着きました。理想の空手を追求する道は30歳で終わったのです。
 しかし1980年代はなかなか完成しない弟子の育成に受即攻の「未完成の完成」という時代があると考え、組織的に段階的な指導を行い、そこから本当の理論を築いていってもらえばいい。そうした態度で、弟子の育成に努め、私が完成させた空手を受け継いでいってもらえたら、また新たな理想を実現できる気がしています。21世紀は「完成期の完成」へ「ゼロ&無限」の精神で挑戦していきます。

 
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